2009年11月30日月曜日

Artus encore...

しかし、あの緻密綿密用意周到な笠羽さんの仕事であっても、老獪なアルチュスは欺いていました。索引を見ると、アルチュス(確かに同名ですが)が二人いるのですが、一人は《ペレアス》ベルギー公演の時のアルケル役の歌手の名前で、作家のルイ・アルチュスとは別人です(たぶんファーストネームも違うでしょう)。

2009年11月28日土曜日

Waters

Robert F. Waters という人のセヴラック研究本が出たので読んでみた(Déodat de Séverac - Musical Identity in Fin de Siècle France, Ashgate, Hampshire, 2008)。やたら、未公刊論文からの引用が多く、アメリカの学術書の「悪い」面を集約したような出来である(おそらく学位論文検索エンジン?などでも使っているのだろう。お手軽なことだ)。確かに新たな情報もいくつかはあるが、「しょせんそれだけだ」(これは芥川の「方法」で表現してみました)。間違いも多いし……。最も悲惨なのはフランス語の sol を「太陽」の意味に間違えている所。これは「土」です。

ドビュッシー書簡集

ドビュッシーの書簡集には、1980年版と1993年版の二種類があるのですね。そして日本語訳はもちろん後者を底本としているということなのでした。しかし、かえすがえすもルシュール氏がこの世にもういないことが大きな損失だと思われます。アルチュスのことなど、彼に聞いたら一発でわかったでしょうに。(別にギヨー氏のことを貶めているわけではない。しかし、どうしてもギヨー氏はいわば音楽学者として「後発」という感は否めないかな ― もともとはオルガニストであったらしいです。)

2009年11月25日水曜日

ドビュッシー

それは、ドビュッシーの1909年3月29日付けの手紙でした。ガブリエル・ムーレーという作家に宛てた手紙です。ところが、ぼくが持っている原書版にはその部分がないので、現在ちょっと当惑中。笠羽さんの翻訳の中で見つけたので、彼女が翻訳に使った底本が違うもののようです。うむむ……。

2009年11月23日月曜日

アルチュス発見!

ふつかよいの頭で。説明は後ほど……。

2009年11月19日木曜日

リスト

ロマン派音楽史の準備でリストの楽譜を見ていたら、《巡礼の年報》に漏れた作品の一つの《リヨン》の冒頭に、「Vivre en travaillant ou mourir en combattant」とあって、ぼおっと「大里さんの人生と似ているなあ」などと思いつつ、弾いていたら不図思い出した。この言葉は最近市田さんのランシエール論の中で読んだのだった。これはリヨンの絹織物生産業でこき使われている人たちの反抗の言葉だが、「働きながら生きるか、戦いながら死ぬか」というのは、すべてが「政治的であり得る」ことの実例であった。これは「生きる権利」への「戦い」なのだ。

2009年11月18日水曜日

大里さん

大里俊晴氏が亡くなられました。余りにショックで何も言えません。残念に思うばかりです。

2009年11月15日日曜日

マーラー

夢でマーラーに会った。長旅で背中を痛めたと言っていた。これから交響曲を初演すると言う。波止場のようなところで、どうも一緒にワルターもいたような気がする。彼はドイツ語だし、ぼくはフランス語なのだが、英語あたりで折り合いをつけたか。

2009年11月10日火曜日

ブーレーズ

ブーレーズで思い出したが、ぼくがブーレーズ論で卒論を書いた時、ケージと比較したりしたのだが(ベニテズの影響だ)、審査にあたった渡辺守章が、ケージとブーレーズの違いは英語と仏語の違いだろう、みたいなことを得意げに言っていた。当時のぼくは「うぶ」だったので反論できずじまいだったが、それって単なる「反映論」?芸術作品とはそんなに単純じゃない!

ランシエール

市田良彦さんのランシエール論(『新<音楽の哲学>』白水社)を読んだ。ランシエール美学と哲学(特に彼のマルクス主義 — アルチュセール観)との関係がよくわかり大変有益だった。しかし、いわゆるシリアス現代音楽の言説としてブーレーズやシュトックハウゼンの言うことをそのまま信用してしまっているのは、ちょっと……。そしてまた、「大衆音楽」と美学はそもそも関係がないのではないか、という素朴な疑問も。たぶんアドルノもその「ジャズ分析」で、美学者としてではなく、社会学者として振る舞っているのでは(それが成功しているかどうかはともかく)………。あるいは広い意味での「隠喩」?

2009年11月7日土曜日

パワーゲーム

世の中には、本当にパワーゲーム(権力争い)が好きな人間が多くて困る。つまりは自分の力を誇示したいということなのだろうが、そのために他人を利用するのはやめて欲しい。またその形も非常に陰微な形で、はっきりと権力を見せつけはしないという形で行われることも多い。だから一見するとそれがパワーゲームの一種だとはすぐには気づかないのだ。よく考えると「ああ、そういうことなのか」と合点がいく。しかし……、ただぼくは自由でいたいだけなのだ。まさに Fiche-moi la paix である。

2009年11月2日月曜日

ヘーゲル美学

ヘーゲルの美学体系において、芸術はその「精神化」と「主観化」の度合い(すなわち、絶対精神のあらわれの度合い)によって、その順位が決められる。音楽は最高位の詩についで二番目である。しかし、言語という足かせに捕われている詩の方が音楽よりも「精神性」において劣っているのではないか、とも考えられる。そのような抗議への答えがこれだ。
「しかし、<理念>が<概念>すなわち<普遍>に到達する必然性に基盤を置いた体系は、世界内に外化することによって主観性を超克する芸術に優位を与えざるを得ない。こうして、詩を選ぶという、非常にロマン主義的な選択が生まれる。ヘーゲルにとって、詩こそが祖国を持たないものであり、音楽ではなかった。」(Jimenez, p.193.)
でもその後でジムネーズはこう付け加えている。
「しかし、この詩のステータスは、それほど明確なものではない。彼がその点について、矛盾を提示してしまうほど、ためらっているのは非常に意味深い」。
またまた、要確認のことが増えた。

どこにも行かない

どこにも行かない道(chemins qui ne mènent nulle part)、というのはハイデッガーの論集の仏訳題名だが、人生とはまさにそれだ。いつまでも堂々巡りをしている。クロソフスキーのニーチェ論(cercle vicieux)も悪循環などより堂々巡りなのでは?といつも思う。