2021年12月6日月曜日

メルロ=ポンティ

 「わたしは知覚的経験によって世界の厚みのなかへめり込んでいる」のであって、そういう世界への内属という関係を、対象としての世界とそれについての思考へと置き換える。そういう視線は、パースペクティヴのなかで対象との関係を考えるのではなく、まるで対象を俯瞰するように無視点的に考察しようとし、結果として「感覚の内的構造を破壊してしまう」のだ。………「見つけださなければならないのは、主観と観念と対象の観念のこちらがわにある、発生段階でのわたしの主観性の事実と対象であり、つまりもろもろの観念や事実が生まれでてくる原初的地層なのである」。……知覚するのは〈わたし〉ではなく、「ひとがわたしのなかで知覚する」というわけだ。(鷲田清一『メルロ=ポンティ』)この「知覚」を「音楽」と置き換えてみよう。音楽がわたしのなかで現実化する、そしてそのような音楽はまるでA地点からB地点までのドライヴのようなもので、そのように捉えた場合に「音楽作品」とはどのようなものになるか。道は地図上にも、現実世界にも、ある。しかしそれをドライヴ(現実化)しないと移動できない(演奏とならない)。