2022年12月3日土曜日

大戦期欧米音楽への新たなまなざし

 明日です。おもしろいものになること間違いなし!



2022年10月28日金曜日

ゆみさんとのCD録音

 10月17日から21日まで芦屋ルナホール大ホールを借り切って、奈良ゆみさんと新しいCDの録音をしました。来年の3月にはコジマ録音から出ます。タイトルはいまのところ「永訣の白い響」。サティ《ソクラテス》を中心に、シューマンとモンポウの愛と死を歌った作品が並びます。













2022年7月11日月曜日

『近代日本の音楽百年』書評会

昨日はポピュラー音楽学会で、細川周平『近代日本の音楽百年』の書評会。本書成立のモチベーションとして、従来の西洋音楽輸入の歴史という「上からの歴史」ではなくて、大衆的な音楽の歴史という「下からの歴史」が必要なのだということで、この会の最終的な結論も「上から」は今まで十分にあったから、これからは「下から」だ、というようなことでまとまっていた。私がそれを聞いて感じたのは、「上から」といっても、歴史に残るような一流の音楽家たちの歴史であって、西洋古典音楽にかかわっていた人たち(聴衆、愛好者、アマチュア、楽譜や雑誌の出版、同好会的なもの、などなど)も多くいたのではないか、ということだった。そしてこれらの歴史はまだないように思う。これらの、すごく「上」でもないが、大衆音楽というような「下」でもない、いわば「中間層」(?)はどうなのだろう?しかし、また考えてみると、近代日本のすべての音楽について調べ上げるということが必要なのかどうか。なんとなく「一番正確な地図は実物代のものだ」というようなパラドックスも思い起こさせる。(忘れないうちに書いておきました。)

2022年4月1日金曜日

シンポジウム「上海フランス租界史研究」承前

 前回にグロボワが「頭でっかちの保守派」と書いたが、直後に発表者の森本さんから連絡あり、より詳しいプログラムを知ることができた。それによれば、「六人組」あり、ヒンデミットあり、でまったく「頭でっかちの保守派」ではなく、柔軟な頭で新しい音楽にも接していたらしいことがわかったので、訂正いたします。ただ、レコードになっているものだけがプログラミングされるので、そのあたりのハンディはありますね。

2022年3月27日日曜日

シンポジウム「上海フランス租界史研究」後に仲の池まで散歩

 午後の長い時間「上海フランス租界史研究」シンポジウムをズームで聴講したので、背筋を伸ばすために仲の池まで散歩。

シンポジウムの感想を忘れないうちに。
シャルル・グロボワがラジオ番組で2時間クラシックを聴かせたという話で、すべてがレコード演奏だったというので、それをどのように調達したのかを質問したけれど、シベリア鉄道経由で苦労して入手とか、上海地域のレコード所有者に呼びかけたとのこと。しかし、その曲目選択にはグロボワの趣味が強く反映されていたのでしょうね、とても保守的でした。20年代、30年代は「六人組」全盛期だけれど、ひとつもなかったし。もちろん「新ウィーン楽派」などない(レコードがなかったかもしれないが)。ヒンデミットもない。でもソヴィエト作曲家がいるのが不思議。収集されたレコードはどうなったのだろう。図書が日本の日仏に来た話はあったが。
グロボワがスコラ・カントルム出身というのも興味深い。ヴァンサン・ダンディゆずりの頭でっかち、保守派というのはここから来ていそう。同時にルーセルのような非ヨーロッパ文化へのまなざしも影響があるか。
上海関連では、ぼくの頭にはすぐに富永太郎が浮かぶ。当時はたしかに日本人にとって「すぐそばのパリ」だった。しかし、彼が上海にわたってどうやって生きていこうとしたかというと、「日本人にフランス語を教える」だったのが興味深い。
もうひとつはフランスで有名ピアニストだったYoura Gullerが戦中・戦後の混乱期に上海に数年生きていたという話。これは証拠はないようだ。彼女の場合は、ユダヤ系なので、どこのコミュニティにいたのか興味深いところだ。






2022年3月22日火曜日

梨のかたちをした30の言葉

 サティの言葉を30集めて詳細なコメントを付しました。単におもしろいだけではなく、彼の「真の」(?)すがたが現れてきます。5月刊行予定。


https://artespublishing.com/shop/books/86559-250-4/


2021年12月6日月曜日

メルロ=ポンティ

 「わたしは知覚的経験によって世界の厚みのなかへめり込んでいる」のであって、そういう世界への内属という関係を、対象としての世界とそれについての思考へと置き換える。そういう視線は、パースペクティヴのなかで対象との関係を考えるのではなく、まるで対象を俯瞰するように無視点的に考察しようとし、結果として「感覚の内的構造を破壊してしまう」のだ。………「見つけださなければならないのは、主観と観念と対象の観念のこちらがわにある、発生段階でのわたしの主観性の事実と対象であり、つまりもろもろの観念や事実が生まれでてくる原初的地層なのである」。……知覚するのは〈わたし〉ではなく、「ひとがわたしのなかで知覚する」というわけだ。(鷲田清一『メルロ=ポンティ』)この「知覚」を「音楽」と置き換えてみよう。音楽がわたしのなかで現実化する、そしてそのような音楽はまるでA地点からB地点までのドライヴのようなもので、そのように捉えた場合に「音楽作品」とはどのようなものになるか。道は地図上にも、現実世界にも、ある。しかしそれをドライヴ(現実化)しないと移動できない(演奏とならない)。