2009年12月31日木曜日

大晦日

なんとか無事に日本で新年を迎えられそうです。みなさんよいお年を。

2009年12月24日木曜日

図らずもParis12

つまり、飛行機に乗れなかったのである。以前も自分の間違いで飛行機に乗り遅れた(一日まるまる間違えていた!)ことがあったので、今日こそは大丈夫だね、いや今日もあぶないか、ははは、などと、ゆみさんと話して別れたのだが、空港についてみるとオーバーブッキングの嵐である。ここの所の悪天候で乗れない人間がだぶついて順繰りにおせおせになっているらしい。というわけでパリ市内にUターン。やれやれ。
というわけで、またもやもう一泊ゆみさん宅にお世話になる。しかしおかげで例の近くのクスクスをいただくことができた。

2009年12月23日水曜日

Wien3 et Paris11

午前中にセセッシオンのリベンジ。ベートーヴェンフリースは、触られないようにか、高い位置にあった。首が痛くなる。同時にボール紙だけで出来た非常に面白い展示があった。ミカエル・アシュキンという。その後はホテルをチェックアウトし、空港へ。今回は温度も零度と高く(!)、無事に飛行機は飛んだ。しかし、パリの空港から市内が遠いので結局真っ暗になってからの到着。晩ご飯はポーズカフェでステックフリット(!)。最後の食事が典型的パリの食事とは!
夜にはゆみさんが日本から帰仏。

2009年12月22日火曜日

Wien2

ハイリゲンシュタットへ。マイナス十二度をおして着くとベートーヴェンハウスは定休日!仕方なくマーラーの墓へ。こちらは別に休みはない。雪に埋もれていた。グリンツィングというところである。その後路面電車と地下鉄でセセッション美術館へ行くとここも休み。ウィーンは月曜休みなのだった。やれやれ……。デーメルで一休み。夕食はユダヤ人広場に面した居酒屋(シェーラーと言ったかな?)で、初めての(!)ウィーン料理。

2009年12月21日月曜日

Wien1

なんとか一日かけてウィーンに到着。空港が凍り付き飛行機が三時間遅れ。欠航も多く出たようで着けただけマシか。市内に着くともう真っ暗で、宿のグラーベンホテル下のイタリアンで食事後、ちょっと散歩したらめちゃくちゃ寒く、きくとマイナス十二度とか。うむむ……。

2009年12月20日日曜日

Paris10

今日は朝のうち、Flûte de Pan へ行って注文楽譜を購入。その後、Marché d'Alligre で鈴木さんと合流。Baron rouge というカフェで牡蠣のデギュスタシオン。立ち飲みである。なかなか庶民的でよい。その後、ハノイでフォー。午後はピアノ。夜には小夜と五十瀬と一緒に野田岩でうなぎ。明日からウィーンである。

2009年12月19日土曜日

Paris9

昨日はモニック二日目。つつがなくレパートリーをこなし、三日目は必要ないだろうと。夜は、ブリュンヒルドのところに。ジャックリーヌはリヨンに映画上映に行っているとのこと。いろいろな話をし、いろいろ見せてもらったり、聴かせてもらったりした。しかし、フェラーリのアトリエで、彼のピアノの横で、彼の机に向かって、彼についての資料を見ているというのは、不思議な気分であった。夢にまで見てしまった。

2009年12月18日金曜日

Paris8

昨日の昼は久しぶりにアントワーヌと会った。彼はソルボンヌ所属だが昨日の待ち合わせは INHA(Institut National d'Histoire de l'Art)の彼の研究室。Palais Royal の近くで、そこを通って工事中の彼のアパルトマンのあるゴブラン行きの地下鉄へ。雪に覆われた Palais Royal は素晴らしかった。アパルトマンの工事中、彼の友人(ジョルジュだったかな?)が留守番をしている。その彼を交えてイタリアンのセザールへ(ゴブランに住んでた頃はよくいったので、懐かしかった)。その後、モニックのところへ。いつも通り、地下鉄ポルト・ドゥ・サン・クルー終点に彼女が車で迎えにきてくれた。雪また雪の公園の中をひたすら走る。そして彼女の「おやしき」。これもまた雪に埋もれて壮観。練習はうまく行ったと思う。

2009年12月17日木曜日

雪のパリ

屋根をうっすら覆って

Paris7

昨日はパリ8での音楽美学講義。その後は、日本レストラン「ナオキ」のリベンジ(日曜の夜に行ったけど閉まっていた)。フィリップと鈴木さんも一緒。しかし、あまりに待たされて疲れた。今日は、Rueil Malmaison の美術学校 Ecole d'art で講義。RER がストなので、デファンスでフィリップとロベルトと待ち合わせ。志賀とナショナリズム、柄谷と加藤周一を手がかりに、という内容だったが、とても反応もよかったし、充実していた講義であった。その後は、五十瀬とお買い物(昨日は小夜と)。そして、夜は鈴木さんの素晴らしい手料理。オットー・ワーグナーについて議論。

2009年12月15日火曜日

Paris6

日曜夜にサン・フェリックスからパリに帰り、その夜はサラの家にお呼ばれ。小夜と五十瀬と。フィリップとポンピドゥーセンター入り口(スト中)で待ち合わせ。サラの家はパリの中心の中心。1歳の娘はマチルドちゃん。かなり遅れてロベルト登場。サラの夫はカミーユ。哲学者夫婦である。昨日は、パリ第8大学へ、書類にサインをしに行った。フィリップと Bâtiment A のカフェで待ち合わせ。その後、Librairie Monnier へ注文の Cahier Debussy no.10 を買いに。ついでに Flûte de Pan にもよったが注文楽譜は未だ。ギヨー氏にルクーの《ピアノソナタ》とセヴラックのそれとの類似を指摘されたので、きいてみたが2004年から絶版。残念!

2009年12月14日月曜日

Saint Félix

金曜日朝にパリ、オーステルリッツ駅から出発し、トゥールーズに5時前に着くはずが、リモージュ手前で信号故障のため30分遅れで到着。予定より1本後のバスに乗り、1時間10分でサン・フェリックスへ。もう真っ暗だった。宿はブラック=ベレール夫人が手配してくれていた広場に面したル・コカーニュ。こうして土曜日一日をここで過ごし、日曜日にまた一日かけてパリに戻って来た。あまりにいろいろなことがあったので、詳細は別の機会に譲る。一つの小説が書けるくらいだ(と、思う)。
一言だけ。サン・フェリックスで日曜朝、帰りのバスを待っていたら、国道を大きなしっぽをふさふささせて一匹のリスが大急ぎで渡って行った!

Saint Félix Lauraguais

ピレネーの山々をのぞむ。

2009年12月11日金曜日

Bourg-en-Bresse

といっても先ほどパリに帰って来た所。ギヨー氏(ソルボンヌの名誉教授である。そんなこと彼は一言も言わなかった。実に謙虚な人柄だ)は本当に寛大なよい先生であった。彼がアルチュスのことを知らなかったというのもいわば Mauvaise langue で、ドビュッシー書簡集の方が後に出版されていたのであった。実に沢山のことを教えてもらった。セヴラックのいわゆる「地方主義」や「宗教性」、彼とスコラの先生達との関係、シャルル・ボルドなどなど。彼はブルクの教会オルガニストを45年間つとめ、それゆえにここからパリやリヨンに教えに通ったのだという。おかげで、ぼくのセヴラック伝はかなり豊かになった。駅前のホテルに泊まったら、その広い広い庭にリスが二匹、遊びまわっていた!!野生の?リスを見たのは初めてだ。ギヨー氏が電話をしてくれて、カトリーヌ・ブラック=ベレール夫人(セヴラックの孫の配偶者)と話をし、明日にさっそく行くことにした。やれいそがしや。

2009年12月9日水曜日

Paris5

というわけで、一昨日は再びピエール・マリエタンに会う。いろいろ話をし、昼食はまた同じ中華で、その後も彼のアトリエに戻り新作を聴かせてもらう。昨日はやっとパリ8での講義。フィリップもロベルトも参加し、彼らのゼミで使ったというランシエールのメディオムについての論文を導入に、Malaise での議論を説明。その後は学生達も交えた活発な議論に。終了後はクリシーの彼ら行きつけのビストロでアペロ。マリエタンの所にも来ていたイタリア人で哲学専攻のサラも一緒(一歳の子の母)。その後サラは帰り、我々三人で近所の映画館の中(!)のレストランで食事。ロベルトが自分はプラトン主義者であるとする大議論。今日はこれから TGV に乗って、Bourg-en-Bresse のピエール・ギヨー氏のところへ行く。

2009年12月7日月曜日

パリの夕暮れ

夕焼けの色は携帯写真では残念ながら、よくわかりませんね。

2009年12月6日日曜日

Paris4

ゆうべは、例の Sonorités no.4 発刊記念の集まり。ピエール・マリエタンの家で。けっこう沢山の人が集まった。マリエタンはいいおじいさんになっていました。これは環境音楽関係の雑誌で、もう90年代から活動しているスイスーフランスの集まり(知らなかったがマリエタンはスイス人だった)の報告書といった色彩。もう一人の責任者が、ロベルト・バルバンティである。何と彼は83年、ぼくより一年前のダニエル・シャルルの学生であった。その上、大学都市のイタリア館に住んでいたというから、ぜったいにどこかですれ違っているはず。集まりはめちゃくちゃコスモポリットで、だいいちフィリップはベルギー人だし、主がスイス人で、ロベルトがイタリア人で、そのほかアルゼンチン人のピアニストやイタリア人の哲学者やコロンビア人の作曲家(マリエタンの娘の彼氏)、そして日本人の音楽学者(かく言うわたくしめ)などなど。その後、近所の中華料理で皆で食事。マリエタンはぼくに興味を持ったようで、ずっと隣で話し、また今度の月曜日に会うことに。

2009年12月5日土曜日

Sonate de Séverac

Flûte de Pan で発見しました!Le ChevrierLes Cors も注文。エシックから出ているが、今やそういう由緒あるフランス楽譜出版社はみんなミラノに行ってしまったと(!)。というわけで、少々時間がかかるが、こちとらパリに御滞在でい!Cahier Debussy no.10 も注文。こちらはその隣の音楽書専門古書肆の Librairie Monnier である。ついでに、ラモーの和声論のファクシミリ版とカイエ・ドビュッシーのケクラン《ペレアス》論の号、そして François Porcile, La belle époque de la musique française, 1871 - 1940 を買った。

2009年12月4日金曜日

Paris3

フィリップが連絡しないというのは、mauvaise langue でした。失礼!というわけで、昨夜は(音響のロベルトはつかまらなかったが)久しぶりに彼と会った。バスティーユの Café de l'industrie で。何年か前にもここで一緒に食事をしながら話した。席の後ろの棚に猫が寝ている。いちおうの授業計画?は決定。ランシエールを交えてのシンポジウムは流れてしまったが、ランシエールの美学については話をすることに。あとは、志賀とナショナリズム(柄谷と加藤を交え ー これはぼくが考えたもの)と、音楽関係ひとつ(未定 ー いちおう狂気の音楽史関連を考えている)。なんとピエール・マリエタンとロベルトは一緒に雑誌『ソノリテ』をやっていて、今度の土曜に第4号発刊記念パーティーがあると。フィリップと行くことに。マリエタンはそのレコード(『イニシアティヴ』)以外知らないので、こんなところで会おうとは!

2009年12月3日木曜日

Paris2

Je déjeune aujourd'hui avec Louise à Bastille. Sur la place, vraiment il y passent des gens variées : jeunes, vieux, blancs, noirs, asiatiques, juifs, soldats, ouvriers, clochards.... sous le vent très froid, pluvieux. Triste et gai en même temps.
Pas d'appel de Philippe, comme dab.

2009年12月2日水曜日

Paris

なんとかパリに到着。冬のパリは雨模様で、寒く暗い。パリ8の事務の無能さは相変わらずだが、とりあえず自由に行動させてもらうことに。フィリップとは明日相談。

2009年11月30日月曜日

Artus encore...

しかし、あの緻密綿密用意周到な笠羽さんの仕事であっても、老獪なアルチュスは欺いていました。索引を見ると、アルチュス(確かに同名ですが)が二人いるのですが、一人は《ペレアス》ベルギー公演の時のアルケル役の歌手の名前で、作家のルイ・アルチュスとは別人です(たぶんファーストネームも違うでしょう)。

2009年11月28日土曜日

Waters

Robert F. Waters という人のセヴラック研究本が出たので読んでみた(Déodat de Séverac - Musical Identity in Fin de Siècle France, Ashgate, Hampshire, 2008)。やたら、未公刊論文からの引用が多く、アメリカの学術書の「悪い」面を集約したような出来である(おそらく学位論文検索エンジン?などでも使っているのだろう。お手軽なことだ)。確かに新たな情報もいくつかはあるが、「しょせんそれだけだ」(これは芥川の「方法」で表現してみました)。間違いも多いし……。最も悲惨なのはフランス語の sol を「太陽」の意味に間違えている所。これは「土」です。

ドビュッシー書簡集

ドビュッシーの書簡集には、1980年版と1993年版の二種類があるのですね。そして日本語訳はもちろん後者を底本としているということなのでした。しかし、かえすがえすもルシュール氏がこの世にもういないことが大きな損失だと思われます。アルチュスのことなど、彼に聞いたら一発でわかったでしょうに。(別にギヨー氏のことを貶めているわけではない。しかし、どうしてもギヨー氏はいわば音楽学者として「後発」という感は否めないかな ― もともとはオルガニストであったらしいです。)

2009年11月25日水曜日

ドビュッシー

それは、ドビュッシーの1909年3月29日付けの手紙でした。ガブリエル・ムーレーという作家に宛てた手紙です。ところが、ぼくが持っている原書版にはその部分がないので、現在ちょっと当惑中。笠羽さんの翻訳の中で見つけたので、彼女が翻訳に使った底本が違うもののようです。うむむ……。

2009年11月23日月曜日

アルチュス発見!

ふつかよいの頭で。説明は後ほど……。

2009年11月19日木曜日

リスト

ロマン派音楽史の準備でリストの楽譜を見ていたら、《巡礼の年報》に漏れた作品の一つの《リヨン》の冒頭に、「Vivre en travaillant ou mourir en combattant」とあって、ぼおっと「大里さんの人生と似ているなあ」などと思いつつ、弾いていたら不図思い出した。この言葉は最近市田さんのランシエール論の中で読んだのだった。これはリヨンの絹織物生産業でこき使われている人たちの反抗の言葉だが、「働きながら生きるか、戦いながら死ぬか」というのは、すべてが「政治的であり得る」ことの実例であった。これは「生きる権利」への「戦い」なのだ。

2009年11月18日水曜日

大里さん

大里俊晴氏が亡くなられました。余りにショックで何も言えません。残念に思うばかりです。

2009年11月15日日曜日

マーラー

夢でマーラーに会った。長旅で背中を痛めたと言っていた。これから交響曲を初演すると言う。波止場のようなところで、どうも一緒にワルターもいたような気がする。彼はドイツ語だし、ぼくはフランス語なのだが、英語あたりで折り合いをつけたか。

2009年11月10日火曜日

ブーレーズ

ブーレーズで思い出したが、ぼくがブーレーズ論で卒論を書いた時、ケージと比較したりしたのだが(ベニテズの影響だ)、審査にあたった渡辺守章が、ケージとブーレーズの違いは英語と仏語の違いだろう、みたいなことを得意げに言っていた。当時のぼくは「うぶ」だったので反論できずじまいだったが、それって単なる「反映論」?芸術作品とはそんなに単純じゃない!

ランシエール

市田良彦さんのランシエール論(『新<音楽の哲学>』白水社)を読んだ。ランシエール美学と哲学(特に彼のマルクス主義 — アルチュセール観)との関係がよくわかり大変有益だった。しかし、いわゆるシリアス現代音楽の言説としてブーレーズやシュトックハウゼンの言うことをそのまま信用してしまっているのは、ちょっと……。そしてまた、「大衆音楽」と美学はそもそも関係がないのではないか、という素朴な疑問も。たぶんアドルノもその「ジャズ分析」で、美学者としてではなく、社会学者として振る舞っているのでは(それが成功しているかどうかはともかく)………。あるいは広い意味での「隠喩」?

2009年11月7日土曜日

パワーゲーム

世の中には、本当にパワーゲーム(権力争い)が好きな人間が多くて困る。つまりは自分の力を誇示したいということなのだろうが、そのために他人を利用するのはやめて欲しい。またその形も非常に陰微な形で、はっきりと権力を見せつけはしないという形で行われることも多い。だから一見するとそれがパワーゲームの一種だとはすぐには気づかないのだ。よく考えると「ああ、そういうことなのか」と合点がいく。しかし……、ただぼくは自由でいたいだけなのだ。まさに Fiche-moi la paix である。

2009年11月2日月曜日

ヘーゲル美学

ヘーゲルの美学体系において、芸術はその「精神化」と「主観化」の度合い(すなわち、絶対精神のあらわれの度合い)によって、その順位が決められる。音楽は最高位の詩についで二番目である。しかし、言語という足かせに捕われている詩の方が音楽よりも「精神性」において劣っているのではないか、とも考えられる。そのような抗議への答えがこれだ。
「しかし、<理念>が<概念>すなわち<普遍>に到達する必然性に基盤を置いた体系は、世界内に外化することによって主観性を超克する芸術に優位を与えざるを得ない。こうして、詩を選ぶという、非常にロマン主義的な選択が生まれる。ヘーゲルにとって、詩こそが祖国を持たないものであり、音楽ではなかった。」(Jimenez, p.193.)
でもその後でジムネーズはこう付け加えている。
「しかし、この詩のステータスは、それほど明確なものではない。彼がその点について、矛盾を提示してしまうほど、ためらっているのは非常に意味深い」。
またまた、要確認のことが増えた。

どこにも行かない

どこにも行かない道(chemins qui ne mènent nulle part)、というのはハイデッガーの論集の仏訳題名だが、人生とはまさにそれだ。いつまでも堂々巡りをしている。クロソフスキーのニーチェ論(cercle vicieux)も悪循環などより堂々巡りなのでは?といつも思う。

2009年10月27日火曜日

Santa Maria

Monteverdi の Santa Maria ora pro nobis はいつでもぼくを感動させる。その声と楽器の「調和 harmonie」。だいいち正式には、Sonata sopra Santa Maria... である。
そして今の気分はまさに「ora pro nobis」だ。やれやれ……(sigh)。

いつもながら

フランスの大学(のみならず行政一般と言えるが)の事務能力のなさにはあきれてしまう。フィリップが多いに奔走してくれているようだが、いまだに客員教授招聘の実際的細部が伝わって来ない。こちらは補講の手続きその他やら、飛行機の予約やら、クリスマス時期のdomestiqueな問題処理など、いろいろやらなければならないことが山積しているのに……。困ったもんだ……。

2009年10月26日月曜日

ヘーゲル

『精神現象学』内の『ラモーの甥』への言及など、けっこう有名なもののようだ。はからずもちゃんと『精神現象学』を読んでいないという事を暴露してしまった(恥)。確かにヘーゲルについては、「クリステヴァだってヘーゲリアンじゃん」というような「侮蔑的」(?)言辞をよく聞かされた身としては、何となく「敬さずして」遠ざけていた感があったのは否めない。すみません。

2009年10月19日月曜日

須磨

須磨海岸。ここに光源氏が流されたと思うと……(たとえフィクションでも)。

2009年10月17日土曜日

セヴラックの

セヴラックの子孫の方と連絡がついた!Magali という娘さんが一人いて、その子供が二人(Gilbert Blacque-Belair、Estelle Delecourt 旧姓が Blacque-Belair)いたのだが、今現在はどちらも物故していて、その配偶者の方が生きておられる。その方と連絡がついたのだった。もちろん、以前に言及した Pierre Guillot 先生のおかげであります。しかし、このギヨー氏の息子のセバスティアン氏がオルガニストで、なんと同志社女子大のオルガンを弾いた事がある、というから驚きである。1992年のことらしい。まさに Le monde est petit. というのがお互いの感想。

2009年10月9日金曜日

ラモーの

『ラモーの甥』とヘーゲル『精神現象学』が関連しているという、これもまた Jimenez 情報。要確認!

2009年10月5日月曜日

デカルトに

ここ最近、ルネ・デカルトによく出会うと思っていた。3回である。2回までは覚えていた。まずは「音楽文化学講読2」の講義である。ルネサンス以後の音楽書講読で日本語で読めるものの最初は、彼の『情念論』である。この原題が訳書のどこにも書いていないので困った。後から見つけたが Les Passions de l'âme である(と思う)。直訳すると「魂のもろもろの情熱」である、うーむ、なかなか……。それを見つけたのが2番目の関係で、「西洋芸術論」の講義の中だ。どちらも、芸術体験における「主体」の確立が問題となる。しかし、3番目は……。日本語で読んだ記憶があり、最近は日本語を読んでいないので、はて何だったか?と思っていた。そうそう、最近、中学高校時代の恩師から送られて来た彼の著書の中だったのであった。小柳敏志『学ぶこと、未来へ ― いまを生きる中学生・高校生へ』(平和文化、2009年)である。

2009年9月26日土曜日

淡路島


淡路島側から見た明石海峡大橋。向こうに見えるのは神戸の街。神戸は港と山が近いところ、その間にビルや高速道路が林立するところが、ニースとよく似ているといつも思います。(ただしもちろんニースに淡路島はありません、念のため。つまりこちら側の眺めはない。)

2009年9月14日月曜日

水の

水の落ち口。この地下に大きな瓶が埋められていて、水滴が反響する。

立て札

水琴窟

これについては、Revue d'Esthétique に書いた論文 "Le paysage japonais à travers Cage" で述べたように、以前は「悪趣味」として否定的だったが、最近はそれほど悪くないかとも思うようになった。(江戸時代の文化に「悪趣味」はつきもの?)西宮の大谷美術館の庭で発見。日本の伝統的環境音楽。

Allain Gaussin

突然メールが来て会いたいというのでゴーサン氏と会った。大阪音大で作曲法や管弦楽法を大学院生に夏期集中で教えている。いつもは7月だが、今回はなぜか9月という。呼び出しは何かというと、彼のいくつかのプロジェクトに手を貸して欲しいということ。話をしていて、芸術家として自分の世界の実現にこれだけいつまでも熱意を持っていられる(当たり前か?)のにふと感心したりした。

2009年9月13日日曜日

sujet pensant

 Jimenez は、芸術がそれとして論じられるためにはそれを対象とする主体(sujet pensant)が必要である、と言う。それを準備したのがデカルトであると。そこでふと思うのは、まだパリに住んでいた時、娘たちがピアノやヴァイオリンを習っていた、あの先生達のことだ。ムフタール下のドミニック(ピアノ)とか5区のコンセルヴァトワールでヴァイオリンを教えている日本人の先生(名前を失念した)。彼女達はぼくが音楽の専門家であることを知ってか知らずか、一度として専門的な話をしたことはない。つまりは(もちろん子供相手ということもあろうが)技術の伝授に専念していたわけだ(ヴァイオリンではスズキメトードを使っていたが、これはその方法の最たるものだろう)。音楽をやるのに、sujet pensant の「考える penser」の部分はいらない。これは実はルネサンス以前の「arts mécaniques」の考え方と同じだ。芸術家 artiste ではなく職人 artisan。
 そして、そのような音楽のあり方にいらだちを覚えているのが原因で(多分)、大阪音大の井口先生は今度の音楽学会全国大会で「大学における音楽学」シンポジウムを考えたのだと思う。10月24日、25日に大阪大学で催されるが、そのシンポジウムには井口さんやぼくの他、青柳いづみこさんや民族音楽の谷君も参加する。ぜひご来聴を。
 いやそれで言いたいことは、音楽の演奏専攻の学生が音楽学をまじめに学ばない、というのがこのシンポジウムで問題となるのだが、実はそれは音楽の芸術としてのステータスの歴史に根ざしているのではないか、と思ったということ。

2009年9月10日木曜日

しゃくなので


しゃくなので、図書館の隣の塀に寝ていた猫を撮ってやりました(笑)。

打出


自宅マンションが改装中のため、家で仕事ができない。そこで近所の打出図書館に行ってみたが、まったく仕事ができるようなスペースがない!ここはあの村上春樹が通ったことでも有名なのに(ここでは仕事ができないのに彼は何のために通ったのだろうか?)……。建物はすごく立派なのに……。

2009年9月8日火曜日

国際教養学科の

国際教養学科から頼まれて今秋から開講する「西洋芸術論」のために、Marc Jimenez, Qu'est-ce que l'esthétique ? , Gallimard (coll. folio essais), 1997 を読み直している。というよりも、この本を2、3年前に読んで、その要領の良さに感心したので、これをネタに授業をしようと思ったのだった。Jimenez という人は、パリ1の芸術論の先生のようだが、まだいるのだろうか?(パリ1と言えば、確か音楽には丹波明がいたはず。最近村上君から彼が丹波哲郎の実弟だと聞いて仰天。以後我々の間では「国際的うさんくさい兄弟ナンバーワン」(?)(笑)と言われている……。)

2009年9月7日月曜日

六甲山


オテル・ド・摩耶から見た六甲山です。ということは、正確にはこれは摩耶山なのかもしれない。

2009年9月5日土曜日

Ca y est !

La maison d'edition I... a finalement dit : oui ! Donc ils vont publier mon livre : l'Histoire de la folie dans la musique. Enfin...

2009年9月1日火曜日

フィリップと

フィリップと京都で再会。彼は京大の伊従教授の研究室で仕事をしている。ぼくも初めてそこを訪ねた。中国経由で到着のヤンと共同で使っているようだ。京大の前の喫茶店に行ったら、極東学院長のブノワ・ジャケが5才の娘と食事中だった。フィリップは良く知っていて、ぼくを紹介してくれた。と、そこへ何とニコラ・フィエヴェが!今年から学院に派遣されるとのこと。何年ぶりだろう……。

2009年8月28日金曜日

また向き

おかしかったので修正。うまくいっているか。

2009年8月27日木曜日

灘駅

兵庫県立美術館に「だまし絵展」を見に行った。最寄駅は灘駅で、この辺りでは一人取り残されたレトロ駅舎である(間もなく「であった」となるので写メを撮った)。

2009年8月20日木曜日

大賢は……

大賢は大愚に似たり、というのは、中島敦の小説を読む前から、あるいは『老子』(中学時代のあの中公文庫の味わい)を読んで以来、あまりにできすぎた、ありがちな話であるようにも思っていたが、今回のモニックのレッスン、そしてその他もろもろ(これの方が重大だ)において「まさしく……」という実感であった。モニックのレッスンは逐一録音しておいたから、それをおこしてみようか。ちょっと時間をいただければ、お目にかけることができる。あまりにできすぎているということは、できていないことと同じであり、本当にできているということは、できていないことと似ている。

2009年8月18日火曜日

天竜峡


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Originally uploaded by rshiina
そして、天竜峡。ひところは大変ににぎわった観光地だったようだが、今はすっかり寂れて、人も少ない。それが、いい。(どこかの人擦れした観光地K……のような人を人とも思わないような扱いはなく、ここの人々はひたすら親切である。)

馬頭観音


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Originally uploaded by rshiina
後ろは伊那谷と木曽谷を分ける山脈です。大平峠とか清内路とか。

伊那谷


叔父の法事で飯田に行って来た。伊那谷は向こうに南アルプスの山々を見せて、いつもはればれとしている。

2009年8月4日火曜日

パリの月

パリの夏は高緯度のせいで夜も十時過ぎないと暗くならない。パリっ子が宵っ張りになるわけだ!という訳で月も低いしあまりよくわからない。ラフォルグ!

2009年8月3日月曜日

向き

直しました。

モニックの

御屋敷!1850年頃に彼女の7代前の先祖が手に入れたものとのこと。

その4

おとといはブリュンヒルト・フェラーリとジャクリーヌ・コーと会った。フェラーリのアトリエが生前そのままなのに感動。二人とも自分の仕事とともに亡き夫の仕事整理と発表に頑張っている。みんなで界隈の開いているレストランを捜し、レユニオン料理店を発見。ルガイが美味しかった。アーバンサックスのハノイツアーの話で盛り上がる。そして昨日はゆみさんのところで全員集合晩餐会。エビサカせんせも谷口さんもモニックも。鈴木さんのジゴ・ダニョー!

2009年8月1日土曜日

その3

ゆうべは、フィリップとサンミシェルのコロンビア料理店(!)で食事。彼の元学生でコロンビア人のローラがオーガナイズしたから。彼女と長谷川貴史さんとルイーズ、レオノールも一緒。途中ライブ(ギター・歌・ボンゴ?)あり、ローラはあれは偽物でアルゼンチンだと言う。南米は無限の差異の大陸だ。

2009年7月30日木曜日

パリの目玉

境港だけではありません(笑)。

その2

昨日はエリザベートと日本女性作曲家のCDのライナーノートを直し、ゆみさんとモニックの家で練習。モニックにいろいろ教えて貰う。先生に習うなど何十年ぶりだろう。学ぶことは無限にある。

2009年7月29日水曜日

パリにて

昨日の夕方にパリ着。夏休みなので、なかなかの混みよう。子供が多い。フランスの空港は、新しくはなったが、パスポート・コントロールに人がいなくて、延々と並ばされたり(戦時中のユダヤ人よりましと思って我慢)、トイレが異常に数が少なかったり、パリ市内行き電車の案内がなかったり、と日本では考えられない不便さである。しかし、これはむしろ日本の方が例外的らしい。地下鉄や町も人々も実に汚く、夏の暑さも相俟って臭かったりする。しかし、これがコスモポリタンの町パリのよさ、猥雑な、でも夏の夜長をカフェのテラスでおしゃべりにあかす、のんしゃらんさである。いい意味でいい加減だ。

2009年7月27日月曜日

アドルフ

『アドルフに告ぐ』を読んだ(明日出発というのに何だ、とも思うが、出発前に読んでしまおうというのもあった)。ぼくが今住んでいる神戸(正確には芦屋だが)の町の美しさ、そこを舞台にした「ほぼ真実の物語」はとても印象的だ。そして、これがぼくが生まれるほんの15年ほど前の話だとすると、すぐ昨日の話だという感じがする。恐ろしいことだ。そして手塚治虫の才能!!

2009年7月25日土曜日

というわけで、

というわけで、話は前後していますが、パリ第8大学からの招聘で客員教授として行くことになりました。期間は一か月なのですが、2009年〜2010年の学年の第一セメスターということで、最初は2010年2月を希望していたのですが向こうが休みでダメで、1月かあるいはこちらの入試の都合で2009年12月にするか。事態は紛糾中です。来週からパリに行ってフィリップ・ニス(彼が招聘の張本人)と相談します。

2009年7月24日金曜日

Sonatine

上村に来年1月にパリにいるのなら、ロンドンで演奏会をやらないかと誘われた。ルクーとモーツァルトのソナタ、そして間にラヴェルのソナチネを弾いてほしい、と。そこで久しぶりに弾いてみた。いろいろ思い出して、これを桐朋中の同級生の波多野君の家で弾いて、彼の父親が確か国立の先生だったと思うが、感心されたのを思い出したり、ブラスバンドのクラリネットの高二の先輩が突然「ラヴェルが大好きだ」と言って来たり、当時のぼくにはラヴェルは「現代曲」だったから、いろいろびっくりであった。

ある人と

ある人とうまくいく、うまくいかないというのは、その人がもともと「悪意」をもっているならばいざ知らず、お互いに「善意」の人同士であっても、うまくいかないことがあるものだ。これはいかんともしがたいと言えよう。しかし、もう少し考えてみると、たとえうまくいかなくても、それをどこまで「耐えられる」か、ということにもよるのかもしれない。そうして「耐えよう」という気にさせるもの、とは何か。それはそれぞれの人の気質以外のものだ。あるいは人と人とが出会ってそこで生まれるもの(「あいだ zwischen」?)。

2009年7月22日水曜日

Guillot

Séverac の専門家の Pierre Guillot 氏の連絡先が判明。ソルボンヌの Antoine にきいて調べてもらった。彼はいつもいつも役に立ってくれてうれしい。どうも定年後に田舎に帰ってしまったらしいので、まずは手紙を書こうと思う。

2009年7月21日火曜日

20年後

上村とサントリーホールで弾くので、久しぶりに実家に帰り、そういえばクリストフが父親(ダニエル・シャルル)関連の書誌を集めていたと思い出し、大学院時代に『メリメロ』という雑誌に翻訳を出していたのを引っ張り出してみた。1985年くらいからの雑誌だから、20年以上前の話で、読み返してみるとどうもやはり「気恥ずかしい」。これは何なのだろうかと考えてみた。当時の自分は相当背伸びをしていたなというような感慨か……。よく知りもしないことを偉そうに書いていた、とか……?ただ、そこに「うそ」はないと思うし、結局、上村との演奏だってこれも20年以上のものだ。そこに「うそ」はない。というよりも、やはり「実感」としてあるものから出発していることには、ある種の時代を超えた「真実」があるように思える(ただし、その「実感」がどこまで本物か……?しかし、「本物」などあるのか……?)

2009年7月15日水曜日

Ravel

ラヴェルつながりという訳ではないが、彼の若い時からの友人(「アパッチ族」仲間 — なんとこのグループにはセヴラックも入っていた!)で詩人の Léon-Paul Fargue のラヴェルの伝記(Maurice Ravel, Fata Morgana)を読んでいて、「彼は何でも忘れた、バッグ、時計、切符、手紙……」とあって、おお、これはマーラーと全く同じだ、と思ったのでした。マーラーも、「彼はいつも、なくせるものならば何でもなくし、置きわすれた」とナターリエ・バウアー=レヒナーの伝記にあります。そうか!うっかり屋で、何でも忘れたら大作曲家になれる……というのは大間違いですが(笑)。

音楽文献室

音楽文献室に楽譜を返しに行ったら、テーブルに小さな印刷物が。AVライブラリーと共同で利用促進のための情報誌(?)を発行しているのだそうな。そこに、グリコ「ドロリッチ」のCMにラヴェルの《ラ・ヴァルス》が使われていることが紹介されていた。それで思い出したのだが、このCMを最初に聴いた時、鳴り出した音楽はサン=サーンスの《動物の謝肉祭》の「水族館」(だったかな?)だと思ったのでした。最初の3つの和音は全く同じです。そして、またサン=サーンスの和音が一種独特で、それはニーデルメイエール校でグレゴリオ聖歌の和声付けを勉強したからだ、とどこかに書いてあったのを思い出しました。これで、なるほど、と思ったのは、サン=サーンスの《ピアノ協奏曲第二番》の中のあるパッセージです。どこにも行かないような不思議な和音構成。また後ほど(時間があったら)、楽譜入りで説明します。

2009年7月14日火曜日

ルクー

ルクーのソナタを昨日、初めて上村君とあわせたのだが、音楽を「作って行く」体験から生まれてくる「理解」というものが実感できた。これは以前、奈良ゆみさんとセヴラックの歌曲を演奏した時も感じたのだが、「実体験」というものの重要性は強調してもし過ぎることはないだろう。この「理解」体験については、『音楽的時間の変容』でも少し論じたのだが、自分の手で音楽を「つかむsaisir」というような、かなり身体的な感覚だ。そこではモーツァルトが一曲の交響曲を一瞬で頭の中に描き出す、という逸話との類似性について述べたが、その説明に「形式原理」のようなものを持ち出してしまっていた。今はこれは違うと思うようになった。しかし、また「暗譜」とも違う。「暗譜」はその「理解体験」を助けはするが、それが必要十分条件ではない。これを言語化するのは難しい。

2009年7月13日月曜日

パリの屋根の上

ゆみさんのアパルトマンの屋上から見たバスティーユ

2009年7月12日日曜日

déraciné

déraciné という言葉がセヴラックの書いたものに多々あり、どう翻訳するか迷っていたが、姜尚中氏が「失郷者」という言葉を使っていたので、お、これはいける、と思いました。あとでちょっと調べてみると、どうもこれは韓国語由来の熟語らしい。

2009年7月9日木曜日

Finalement...

Finalement, il me semble que c'est décidé : Philippe Nys m'invite pendant un mois en tant que professeur invité à l'Université de Paris 8. Mais mais mais... il faut que ce soit pendant le premier semestre, donc la question se pose : quand ?

2009年7月8日水曜日

もうひとつ

ラフォルグとセヴラックの関係が気になっている。そして、それに関連して堀口大学(青柳瑞穂はその弟子だったそう — これはその孫である、いづみこさんから先日聞いた)。à suivre

Boulez

これも同じダールハウスの本の中で見つけたのだが、ヤナーチェクやムソルグスキーの「speech melody」と古いタイプのオペラのレチタティーヴォを混同してはいけない、それはブーレーズがしたような間違いに陥る、という。そこでのレフェランスが、Boulez, Anhaltspunkte とあって、これはおぼろげながら Points de repères と思うが、件の箇所は未調査。よって à suivre。

2009年7月7日火曜日

シューベルトとブラームス

なかなか画像の操作が難しくて、ばらばらになってしまいましたが、次と次の楽譜の写真を見ながら読んでください。シューベルト《楽に寄す》は最後の部分で「Hast mich in eine beßre Welt entrükt」(私をよりよい世界へ運んで行った)とあって、その言葉通りメロディーが「G-A-H-C-E」と上がって行くのですが、もう一度この言葉が繰り返されるところでは、「C-E-G-H-C」と下がってしまいます。これは、シューベルトが古典派のスタイルに忠実だからで、そこに上へ上がったら下がって行くというバランス感覚を見て取ることができます。それに対して、ブラームスでは最後に歌詞は「歌声は消えて行く」、森の上方に消えて行くのですが、メロディーは「B-H-C-Cis-D」と上がって上がりっ放しです。これこそロマン派・ロマン主義と言えるのではないか、と思ったのでした。

Brahms


DVC00229
Originally uploaded by rshiina
そしてこちらは、ブラームスの《おお、涼しき森よ》

Schubert


DVC00231
Originally uploaded by rshiina
シューベルトの《楽に寄す》の最後の部分です。

2009年7月5日日曜日

Dahlhaus

Carl Dahlhaus, Realism in Nineteenth-Century Music (Cambridge U. P., 1982) の中に、プッチーニの《蝶々夫人》などは結局「リアリズムなのだ」、ただそれはヨーロッパ社会に対する批判としてのリアリズムである、と述べられている。現状批判としてのエグゾティスムというので、たとえばドビュッシーのエグゾティスムは「内面化」されたものだ、と昔論じたことがある(岩波の講座)が、これをその線で考え直してみることもできよう。

2009年7月3日金曜日

Séverac

セヴラックは相当いわゆる「bon vivant」というような人だったらしい。食べるのも、飲むのも大好き、仕事よりも昼寝が好き、といった具合。ドイツ音楽に対してフランス音楽の(むしろフランスの地方の音楽の)優位を語りながら、ドイツ風の弦楽四重奏曲やソナタや交響曲がやたら長たらしい、それは「まるでワインのない一日のようだ」と述べている。笑いました。

Baudelaire

阿部良雄先生のことを書いたからというわけではない。Michel Faure, Musique et société du Second Empire aux années vingt (Flammarion, 1985) を読み返していて、ボードレールにぶつかった。ボードレールの『1840年のサロン』の中の言葉らしいのだが、芸術を論じるには「partiale, passionnée, politique」であるべきだというのがそれで、我が意を得たりという感じ。そして、「それは狭いけれども、より幅広い地平を広げてくれる」のである。C'est ça !

2009年7月2日木曜日

Odi

Odi et amo というラテン語の格言。愛憎半ばするとはよく言われるが、憎しみもまた愛であるところが、非常に厄介だ。ほっといてくれ、fiche-moi la paix ! というのは通用しない(故阿部良雄先生の研究室には、この言葉が書かれたカード・ケースがあったのを覚えている。もちろん、カード fiche の独り言である。)

2009年6月27日土曜日

ルソー

ルソー『告白』(桑原武夫訳、岩波文庫)を読み返している。確かにルソーが相当な被害妄想にとらわれていたことがよくわかる。しかし、最近自分にもそのような事件が降り掛かるに及んで、これが続けば自分もルソーになるかも(哲学者ではない、被害妄想に)とも思われた。コジマ録音から今秋出ることになっている「日本女性作曲家」のCDのことである。小さな世界の中で、さまざまな人間がさまざまな思惑を抱えながら動き回っているというのが、まったくルソーの描く18世紀フランスと同じである。いやはや……、こまったもんだ。

2009年6月26日金曜日

芦屋の町


芦屋の町を散歩していると、いろいろと面白いものに出くわします。以前には、ある美容院の店先の看板に「PURAISU」と書いた値段表が出ていたことがありました。この写真もその一つ。ケータイで撮ったので見にくいかも知れません。「欧風調」って「欧風」以下?それでイチオク円以上するのって、高くないか?

2009年6月23日火曜日

城崎


そして、城崎。向こうの方に見えるのは日本海です。

ジャンケレヴィッチ


そして、ジャンケレヴィッチの著書『リスト』原書版(Vladimir Jankélévitch, Liszt et la rhapsodie, Plon, 1979 )に載っている「ピアノ馬車」の図。リストほどの名手は、高速で走る馬車を乗りこなすように、ピアノを「乗りこなす」ということ。

プレイエル


というわけで、以前のものを再掲しておきます。まずは、自宅においてある1910年製のプレイエル・ピアノ。2001年に帰国したときにパリから持ってきました。内部はそのときにPianakor というアトリエで、全てもともとの材料を用いて調整し直してもらいました。

HPを整理

HPを整理し直しました。これが正式ブログ(?)で、今までの中の「学術的」(?)なものは、entrepôt (倉庫)に入れました。

2009年6月20日土曜日

Oui, oui, oui....

Oui, oui, oui.... ça marche ! farpaitement !

C'est un test

C'est un test : est-ce que le message de chez soi peut modifier le contenu du site lui-même ?

2009年6月19日金曜日

芦屋川


画像のテストです。
これは、芦屋川。開森橋から上流を望んだところ。

今日は授業がない

今日は授業がない日なのに会議があるので仕方なく出校。途中で梅田のタワーレコードで授業に使う曲のCDを購入。ついでにバーゲンを見ていたら、なんと!
Gombert の Motets
Piccinini の theorbe のための作品
Boccherini のフルート五重奏
が、それぞれ490円でありました!すごい得した気分!

2009年6月18日木曜日

なんとか

なんとかなったようです。これからこれをどのように活用するか考えます。

ブログを開設

ブログを開設しました。これをHPにリンクさせようと思います。