2012年11月7日水曜日

John Cage 100th anniversary countdown event 2007-2012 final

というわけで、先日日曜日のニシジマ・アツシ、稲垣貴士、Gak Sato、竹村延和、Haco、村井啓哲、森本誠士、森本ゆり(敬称略、順不同)による、京都アートセンターでのケージ100歳記念カウントダウン。曲は、前半が一階で、Variations VI、後半は二階で、Root of Unfocus、Cartridge Music & Solo for Voice 1、Music for Amplified Toy Pianos、One7 & Inlets、Ophelia。前半は、JCCE Chronicle 2007-2011というインスタレーションが周りにあって、その中での演奏(始まりと終わりは曖昧に、という指示)。聴衆は自由に動くことができる。こういう時には、いろいろと考えることができて、その時にプログラムの端っこに殴り書きしたものがここにある。「無秩序 ― Adorno 現代社会の反映 etc. 聴きにくいだろう、だからこれはそのような社会の反映だ etc. これは音楽ではない、聴くものではない、ただそこに居るというだけのもの ― 庄野の言う立ち会い、cf. Feldman。各々が別々のことをする = 各々の表現? ちがう。生きている証? cf. 近藤譲。それが最もわかりやすいのは、記憶あるいは意味を使うこと、Cycle des souvenirs  ― しかし、各人の個性を Cage は嫌った?  Musicircus = music + circus 祭り?やはり、その場にいることに意味がある、初詣とか? 周りに最初から流れている4つのビデオ&音響はどうか? 演奏中も存在する。これは Cage の意図とは違うのでは? しかし、意図とは?  変化がないので飽きる → 禅? 飽きたので歩き回る、spectacle 性はあり(音だけでは5分ともたないだろう)、個々の奏者が何をやっているのか具体的に知ることができればなおよかった? → 回るとけっこう楽しい。自らも見られ/見る spectacle 。音響の位置が異なるので、自ら変化を作り出せる → 知人と会うという situation 楽譜の指示だけからではわからない。」第二部も、もちろん十分に楽しめるものでありました。ただ、真っ暗だったので、第一部の時のようなメモはなし。