榎本泰子・森本頼子・藤野志織編『上海フランス租界への招待 ― 日仏中三か国の文化交流』(勉誠出版、2023年)に寄稿した「伝説のピアニスト上海失踪の謎」において、わたしは、フランスのピアニスト、ユーラ・ギュレールが上海における1931年5月27日の「告別リサイタル」以後、杳として行方知れずとなり、8年後の1939年6月にパリで再発見される、ということを書いた。彼女については、その上海行以前から、「時に気を失ったり」、「精神的に不安定で脆」かったなど、順調なコンサートピアニストとしてのキャリアを危ういものとするような評判が多かった。そして1939年以後の第二次世界大戦中も、彼女の足跡は謎に包まれており(ユダヤ人であったことも関係するだろうが)、その後の正式なカムバックは1959年代も終わりになってからである。
わたしは彼女の上海時代の失踪を、8年間にわたるものと仮定して、その前後に彼女をめぐるラブアフェア物語をからめることで、少々ロマンティックに解釈して拙稿を書き上げたのだが、その後、たまたま彼女のその時代の足跡を発見したのである。
わたしは拙稿において、ギュレールが1931年の上海公演のあと、アメリカに渡るのだという新聞記事に言及していた。もしも彼女がそのとき上海にとどまっていなかったのなら、アメリカに行ったと考えるのが妥当だろう。拙稿にも書いたが、アメリカの当時のあらゆる新聞雑誌を探せば、もしかしたら彼女の足跡が見つかるかもしれないが、なかなか現時点でそれは困難である。しかし、である。現在はインターネットという非常に便利な情報ツールがある。ネット上ですべての情報が見つかるわけではないが、とても幅広い情報が手に入るし、さらには思いもかけないものまでが引っかかってくることがある。今回の発見がそれに当たる。
わたしはギュレールの名前、1930年代という時代、そしてアメリカなどの検索条件をさまざまに組み合わせながら、探索を続けた。そこで見つけたのが、1936年にドイツからアメリカに旅行をした、ドイツの自動車技術者・発明家、フェルディナンド・ポルシェの情報である。どうやらアメリカのポルシェの宣伝サイト(https://www.stuttcars.com/ferdinand-porsche/)のようだが、そこにフェルディナンド・ポルシェの詳しい伝記のページがあり、彼の一生が年代を追って非常に詳しく解説されている。その1936年の項に、彼がドイツからアメリカに渡る際に載った客船、ブレーメン号の乗客名簿の一部が紹介されており、その名簿のなかにギュレールの名前があったのである。ドイツの豪華客船ブレーメン号は、1929年から北ドイツの港、ブレーマーハーフェンとニューヨークのあいだを結んでいたが、大西洋を横断する前にドイツからフランスのシェルブールに寄港していたらしい。彼女の名前はシェルブールからニューヨークへの船客名簿のなかにあった。
航海は正確には1936年10月3日から、当時高速を誇ったブレーメン号は4日で大西洋を横断したというから、10月7日にはニューヨークに着いたはずだ。この名簿を見ると、ほとんど戸籍のようなもので、今まで謎だった彼女の情報がよくわかる。彼女は当時33歳であり独身、職業はアーティスト、出生地はルーマニアのブラティアという町(村?)であり、国籍はフランス、民族もフランス人となっている。住所はマルセイユであったようだ。
以上のような情報から、推測されることは、彼女は1931年の上海公演以後、アメリカに行ったかどうかはわからないが、少なくとも1936年までにはフランスに帰国しており、それも南仏マルセイユに住んでいたということだ。拙稿では1939年のパリ出没以後、彼女はその1年後のナチスドイツのパリ侵攻を逃れて南仏に避難し、マルセイユのパストレ伯爵夫人に匿われたと述べた。だが、実はそれ以前から彼女はマルセイユに住んでいたのである。また、しかし、よく考えてみると、彼女の実家はマルセイユにあったはずだ。学生時代こそ、パリ音楽院で学ぶためにパリに住んでいたが、もともとは彼女の出身地は(ルーマニアで生まれたあと)マルセイユなのである。つまり、整理すると、ギュレールは1931年5月に最後の上海公演を行ったのち、上海にとどまったのか、アメリカに行ったのか、おそらく1935年ころまでに出身地の南仏マルセイユに戻り(おそらく血縁の誰かがいたのではなかろうか)、そこで生活をしていた。1936年に、おそらくまたアメリカ公演の話があり、マルセイユからパリ、パリからシェルブールへと移動し(マルセイユからシェルブールへの直通の列車はない)、そこで10月にドイツからやってきた豪華客船ブレーメン号に乗り込んだのである(この時点では、まだ彼女は財政的にも非常に余裕があったということになる)。当時はすでにヒトラーは政権を取っていたはずだが、まだドイツとフランスとのあいだは平常時の関係であったのだろう。数年後に彼女を迫害する側の船に、それもナチス・ドイツの自動車を製造するポルシェと同道して旅行するなど、今から思えば大変に皮肉な巡り合わせである。彼女がいつ、またフランスに帰国したのかはわからない。その3年後には、彼女の姿はパリにあるのである。
さてこうして、拙稿で仄めかされた伝説のピアニストの8年間にわたる上海逃避行は、一枚の乗船名簿により、あえなくもその可能性が消滅してしまったのであった。しかし、こうして考えてみると、やはり、もともと伝説にまとわれたユーラ・ギュレールの行跡は、その行方が「魔都上海」において消えた、とされることにより、なおいっそうの輝きを放っていたとも言えるだろう。本当の彼女の行動は探そうと思えば、たぶんだれでも ― 当時であれば今よりもより簡単に ― 見つけることができただろう。もちろん、戦争というものがそれを困難にしたこともあるかもしれないが、それをだれもしなかったのである。「上海」の神秘をだれもが信じていた、信じたかった、とも言えるのではないだろうか。
問題の乗客名簿