2026年5月11日月曜日
拙著『デオダ・ド・セヴラック』批判について
2026年2月19日木曜日
近代西欧音楽におけるエグゾエティスムの諸相
というわけで、改めてこの40年前の修士論文『ドビュッシーと東洋』の一部を改稿した小論文を読み直してみて、まあまあ悪くないと思った次第であります。とくに当時すでにリュック・フェラーリを論じているところは、日本において早い例なのではないか。ご興味のありの方はぜひお読みください(論文全体をアップできないのが残念ですが)。
世紀転換期の西洋における日本表象シンポジウム
過日、上シンポジウムを聞きに行った。それぞれの発表者の方の内容はいずれもとても刺激的な内容であった。新しく学ぶことも多く、またいろいろと考えさせられた。発表後に質問もさせていただいたが、時間の制約によって言い尽くせないことも多い。ここに少々それについて書く。
まず大出敦先生のクローデルサウンドスケープについての発表。チェエンバレンの西洋的立場の固持からの日本音楽への無理解とハーンの日本音楽に対する共感的理解という対照は、いかにも「我が意を得たり」という感じである。しかしそこから日本音楽を「経験的な音楽」とし、本居宣長などを援用なさるが、翻って考えてみるに、「西洋」対「日本」すなわち「理知」対「感情あるいは経験」と簡単に言えるのかどうか。日本音楽もそれなりに「理知的」であるとも言える。ただ西洋音楽のような「表現」方法をとらないだけなのではないか。
安川智子先生の発表については、新たに学ぶことが多く、大変に有益であった。ヴァグネリスムとジャポニスムを、ジュディット・ゴーティエを介して架橋するのは達見と思う。ただ、この二つは単純に等号で結ぶことは難しいと感じる。もともとの射程の深さから言ってもそうだし、その影響力の到達度(地理的・歴史的範囲、音楽システムへの浸透度)も格段にヴァグネリスムの方が上だ。当日も少々述べたが、ジャポニスムはむしろフォルクロリスムあるいはレジョナリスムなどと合わせて論じる方が実のある議論が生まれる気がする(ダンディ、セヴラックひいてはストラヴンスキーやバルトークまで)。すなわち「前衛性」のプレテクストとしての「民族性」。
小泉順也先生の発表では、オリヴィエ・メトラのバレエ《イエッダ》の振付師が、ルイ=アレクサンドル・メラントであり、これが、誰あろう、あのドガの絵に登場するオペラ座バレエの先生であることを学んだ。その指導の退屈さによって、若きバレリーナたちが、あくびをしたり、背中を掻いたりしているのが活写されていたが、ドガはこれによってメラントの旧弊さ・保守性を暴露していると言えないだろうか。
最後の山田小夜歌先生。1885年の《ミカド》の影響力の大きさを感じさせられた。そしてそのまっただなかに、あの《日本風マズルカ「ムスメ」》を書いたルイ・ガンヌのバレエ《日本にて》が、フランスではなく、まずロンドンの多目的(すなわち教養階級向きでもあり、労働者階級向きでもある)劇場のアルハンブラ劇場で上演されたという事実。私が共同指導教官となっている、リヨン第2大学博士課程の学生の博士論文がまさに、そのような「日本女性のイメージ」を扱っているので、ここに結びついた次第である。
その後、安川さんには、私が修士論文(なんと40年前!)のバイプロダクトとして岩波の叢書から出版した論文「近代西欧音楽におけるエグゾティスムの諸相」を読んでもらったが、本シンポジウムと関連する論題が多く扱われていると言ってもらい、想いを共有できた感でなんとなく嬉しくなったのであった。
2025年10月9日木曜日
アドルフ・プラさん来日
ひょんなことからアドルフ・プラさんが来日することになり、10月20日からの週は行事が目白押しです。
10月20日(月)神戸大学
10月22日(水)同志社女子大学
10月25日(土)日本音楽学会西日本支部例会(於、同志社女子大学今出川キャンパス)
2024年9月6日金曜日
2023年7月24日月曜日
『上海フランス租界への招待』「伝説のピアニスト上海失踪の謎」後日譚
榎本泰子・森本頼子・藤野志織編『上海フランス租界への招待 ― 日仏中三か国の文化交流』(勉誠出版、2023年)に寄稿した「伝説のピアニスト上海失踪の謎」において、わたしは、フランスのピアニスト、ユーラ・ギュレールが上海における1931年5月27日の「告別リサイタル」以後、杳として行方知れずとなり、8年後の1939年6月にパリで再発見される、ということを書いた。彼女については、その上海行以前から、「時に気を失ったり」、「精神的に不安定で脆」かったなど、順調なコンサートピアニストとしてのキャリアを危ういものとするような評判が多かった。そして1939年以後の第二次世界大戦中も、彼女の足跡は謎に包まれており(ユダヤ人であったことも関係するだろうが)、その後の正式なカムバックは1959年代も終わりになってからである。
わたしは彼女の上海時代の失踪を、8年間にわたるものと仮定して、その前後に彼女をめぐるラブアフェア物語をからめることで、少々ロマンティックに解釈して拙稿を書き上げたのだが、その後、たまたま彼女のその時代の足跡を発見したのである。
わたしは拙稿において、ギュレールが1931年の上海公演のあと、アメリカに渡るのだという新聞記事に言及していた。もしも彼女がそのとき上海にとどまっていなかったのなら、アメリカに行ったと考えるのが妥当だろう。拙稿にも書いたが、アメリカの当時のあらゆる新聞雑誌を探せば、もしかしたら彼女の足跡が見つかるかもしれないが、なかなか現時点でそれは困難である。しかし、である。現在はインターネットという非常に便利な情報ツールがある。ネット上ですべての情報が見つかるわけではないが、とても幅広い情報が手に入るし、さらには思いもかけないものまでが引っかかってくることがある。今回の発見がそれに当たる。
わたしはギュレールの名前、1930年代という時代、そしてアメリカなどの検索条件をさまざまに組み合わせながら、探索を続けた。そこで見つけたのが、1936年にドイツからアメリカに旅行をした、ドイツの自動車技術者・発明家、フェルディナンド・ポルシェの情報である。どうやらアメリカのポルシェの宣伝サイト(https://www.stuttcars.com/ferdinand-porsche/)のようだが、そこにフェルディナンド・ポルシェの詳しい伝記のページがあり、彼の一生が年代を追って非常に詳しく解説されている。その1936年の項に、彼がドイツからアメリカに渡る際に載った客船、ブレーメン号の乗客名簿の一部が紹介されており、その名簿のなかにギュレールの名前があったのである。ドイツの豪華客船ブレーメン号は、1929年から北ドイツの港、ブレーマーハーフェンとニューヨークのあいだを結んでいたが、大西洋を横断する前にドイツからフランスのシェルブールに寄港していたらしい。彼女の名前はシェルブールからニューヨークへの船客名簿のなかにあった。
航海は正確には1936年10月3日から、当時高速を誇ったブレーメン号は4日で大西洋を横断したというから、10月7日にはニューヨークに着いたはずだ。この名簿を見ると、ほとんど戸籍のようなもので、今まで謎だった彼女の情報がよくわかる。彼女は当時33歳であり独身、職業はアーティスト、出生地はルーマニアのブラティアという町(村?)であり、国籍はフランス、民族もフランス人となっている。住所はマルセイユであったようだ。
以上のような情報から、推測されることは、彼女は1931年の上海公演以後、アメリカに行ったかどうかはわからないが、少なくとも1936年までにはフランスに帰国しており、それも南仏マルセイユに住んでいたということだ。拙稿では1939年のパリ出没以後、彼女はその1年後のナチスドイツのパリ侵攻を逃れて南仏に避難し、マルセイユのパストレ伯爵夫人に匿われたと述べた。だが、実はそれ以前から彼女はマルセイユに住んでいたのである。また、しかし、よく考えてみると、彼女の実家はマルセイユにあったはずだ。学生時代こそ、パリ音楽院で学ぶためにパリに住んでいたが、もともとは彼女の出身地は(ルーマニアで生まれたあと)マルセイユなのである。つまり、整理すると、ギュレールは1931年5月に最後の上海公演を行ったのち、上海にとどまったのか、アメリカに行ったのか、おそらく1935年ころまでに出身地の南仏マルセイユに戻り(おそらく血縁の誰かがいたのではなかろうか)、そこで生活をしていた。1936年に、おそらくまたアメリカ公演の話があり、マルセイユからパリ、パリからシェルブールへと移動し(マルセイユからシェルブールへの直通の列車はない)、そこで10月にドイツからやってきた豪華客船ブレーメン号に乗り込んだのである(この時点では、まだ彼女は財政的にも非常に余裕があったということになる)。当時はすでにヒトラーは政権を取っていたはずだが、まだドイツとフランスとのあいだは平常時の関係であったのだろう。数年後に彼女を迫害する側の船に、それもナチス・ドイツの自動車を製造するポルシェと同道して旅行するなど、今から思えば大変に皮肉な巡り合わせである。彼女がいつ、またフランスに帰国したのかはわからない。その3年後には、彼女の姿はパリにあるのである。
さてこうして、拙稿で仄めかされた伝説のピアニストの8年間にわたる上海逃避行は、一枚の乗船名簿により、あえなくもその可能性が消滅してしまったのであった。しかし、こうして考えてみると、やはり、もともと伝説にまとわれたユーラ・ギュレールの行跡は、その行方が「魔都上海」において消えた、とされることにより、なおいっそうの輝きを放っていたとも言えるだろう。本当の彼女の行動は探そうと思えば、たぶんだれでも ― 当時であれば今よりもより簡単に ― 見つけることができただろう。もちろん、戦争というものがそれを困難にしたこともあるかもしれないが、それをだれもしなかったのである。「上海」の神秘をだれもが信じていた、信じたかった、とも言えるのではないだろうか。
問題の乗客名簿
2023年7月5日水曜日
ギヨー先生の手紙の翻訳
前の投稿のギヨー先生からの手紙をざっと翻訳してみました。
親愛なる友よ、
何ヶ月かの道行を経て、あなたのディスクはやっと目的地まで到達しました。まことにありがとうございます。そしてお二人の演奏家を讃えたいと思います。お二人は、かつて素晴らしくセヴラックの歌曲の演奏で協働なさったのですが、この新しいCDによって、ことに独創的なプログラム、叡智のプログラム、禁欲主義のプログラム、もっと言えば神秘主義的なプログラムを提示しているのです。これは、その要求により、少なくとも鋭角的な耳と精神に訴えかけるものです。あなた方の共演は完璧に聴衆を「ひきつける」ことに成功しています。そのことは、この録音の成果がこれから大きな成功を勝ち得ることを約束しているのです。
もういちど、私から熱い祝福の念をお送りいたします。
あなたへのよき友情を
ピエール・ギヨー







