2012年2月27日月曜日

帰国


先ほど帰国。少々疲れました。忘れないうちに復習しておくと、21日のジャクリーヌ宅での食事には建築家&ダンサー/振付師の夫妻が来ていて、彼女の方は政府給費で二ヶ月ばかり日本に来るらしい(名前は忘れちゃった、あとで確認します(冷汗)。22日はモニックのところでゆみさんとドビュッシーの勉強。その後、娘たちとイタリアン(Simone e Nicola)。23日はパリのフェラーリ・アトリエで、Symphonie déchirée のCDのための集まり。結局、Brunhild とぼくの他に、Catherine Peillan とそのアシスタント・カメラマン、Benoist Baillergeau そして Philippe Nahon。というわけで、なぜカメラマンかと言うと、我々のしゃべっているのをDVDにするのだという。仕事が終わる頃、村上君と娘たちがアトリエに集まって来て、みんなで近くの Restaurant réunionais で食事(ジャクリーヌももちろん)。24日はモニックのところでサティの勉強。その後は、クリシー広場で Philippe Nys と Roberto Barbenti と食事。夏の国際音響エコロジー学会はロベルトも幹事の一人なのでいろいろと話を聞く。25日は、Montreuil のフェラーリ邸でお食事。その前にブリュンヒルドにインタビュー。これもCDの解説執筆の重要な要素である。食事には、Parislike というネットマガジンをやっている、Sandro とその compagnon の Haijun も参加。

2012年2月23日木曜日

パリ4=?iso-2022-jp?B?GyRCRnwbKEI=?=目

雨模様。おとといは昼はフェラーリアトリエ付近で皆で食事。その後ドビュッシー展目指すも敗退。夜はジャクリーヌ宅にお呼ばれ。昨日は朝に画家のジャックに会い、午後はモニック。夜娘たちと食事。ロケット通りイタリアン。

2012年2月21日火曜日

パリ行

すでにパリ2日目いや到着日を入れれば3日目。昨日は6月のレクチャーコンサートの曲をゆみさんと一緒にモニックに見て貰いに行った。今日はブリュンヒルド&村上君&子供たち。昼食はフェラーリのアトリエのそばでの予定。その後は未定。小夜は建築展を見たいらしい。夜はジャクリーヌ邸にお呼ばれ。

2012年2月16日木曜日

インフルエンザ

昨日から熱っぽく、インフルエンザっぽい。リレンザ吸入。安静中。

2012年2月14日火曜日

採点

レポート・試験採点終わり、成績をつけて、簡易書留で発送。これでいちおう渡仏前の仕事はおしまい。ふー……。そして、ゆみさんから、また新たにドビュシー、サティーの曲目を知らせてきたので(決定版……かな?)、けっきょく日本版の全集本二冊本(ドビュッシーね)をもう一回購入。ついでに、中古LPを見ました。ボイエルデュー Boïeldieu のオペラ・コミック Ma Tante Aurore とミヨー Milhaud の弦楽四重奏曲第14番と第15番、プラス弦楽八重奏曲(後者は前二者を一緒に弾く、というもの)。

2012年2月13日月曜日

昨日は

昨日は出発前の村上君と梅田で一杯。壮行会(?)である。その前に楽譜とCDを購入。楽譜は、6月に東京日仏会館でやる(例のロマン派シンポとは別の)レクチュア・コンサート(奈良ゆみさんと)のものを。来週にパリに行くので(つまりこうして村上君と現地でも会うのだが)モニックに見て貰おうということで、ドビュッシーの歌曲いくつか(《ボードレールの詩》、《抒情的散文》、《華やかな宴》)。CDは、Andreas Scholl の English Folksongs、Esther Lamandier の Romances、Josquin Desprez の L'homme armé masses と Missa de Beata Virgine 、そしてサン=サーンスの弦楽四重奏曲とヴァイオリン・ソナタ他。

2012年2月8日水曜日

心霊の文化史

吉村正和『心霊の文化史』(河出ブックス)読了。スピリチュアリズム、骨相学、社会主義、神智学、イェーツ、カンディンスキー、ユング、田園都市というようなキーワード。ここに、ドレフュスとか、スクリャービンとか、シューマンとか、シュレーバーとか、付け加えて行きたいですね。他にもいろいろありそうだな、ドビュッシーとサティ、フリーメーソンつながりではもちろんモーツァルト、セヴラックにモンポウだって無関係ではない。シェーンベルクも、メシアンも、ミニマリストたちも?それからそれから、シェフェールだって。

2012年2月6日月曜日

石井さん

石井康史さんが亡くなっていた。ぼくは彼とは、ちょっとだけ、すれ違っただけだが、とてもかっこいい(そしてそれを見せない)人だった。東大駒場のラテンアメリカ科の第一期生だった。ラテンアメリカ系の人(?)は、みんなかっこよかった、管啓次郎さんしかり、旦啓介さんしかり。そして、管さん、旦さんはラテンアメリカ科がまだ出来ていなかったので、仕方なくフランス科にいたのである。そこでぼくが彼らを知っているわけだ。当時の駒場は、少しずつ大改編が進みつつあり、中でもこのラテンアメリカ科と表象文化論は目玉のようだった。両方共にとっても「かっこいい」学科だったのである。ぼくは何だかぼおっとなって、それを遠くから眺めていた気がする。今となっては、とほいとほい過去である……。

2012年2月5日日曜日

日本庭園

小野健吉『日本庭園 ― 空間の美の歴史』(岩波新書)読了。日本庭園史が一望のもとに。特に古代の庭園については学ぶ所多く、興味深い。茶室が都市的空間というのも。そして、もちろん回遊式庭園の面白さ。

2012年2月3日金曜日

Alkan

というわけで、あまりに時間があるので、今度依頼を受けた6月に東京日仏会館である「フランス・ロマン派再考」シンポジウムのために(?)アルカンを引っ張り出す。Charles-Valentin Morhange, dit Alkan であって、ダニエル・コーに教わるまで知らなかった存在だった。フランスのロマン派音楽というとベルリオーズか、あとはオペラ関係くらいしか言及されないが、アルカンはショパンとミニマリストたちを繋ぐミッシングリンク、というのがコーの主張。《グランド・ソナタ》とか、ピアノのための《交響曲》、ピアノソロの《協奏曲》など、ほとんど偏執狂的な音楽だ。

ルクーのピアノソナタ

定期試験監督と教授会の間に5時間(!)も暇があるので、ギヨーム・ルクーの楽譜を弾いてみた。《ピアノ・ソナタ》、ピアノのための《三つの小品》(〈言葉のない小さな歌〉、〈忘れられたワルツ〉、〈楽しいダンス(民謡のスタイルで)〉)。ルクーの作品は上村とやった《ヴァイオリン・ソナタ》しか知らなかったが、すぐにそれとわかる彼のスタイルがあるね。不思議な分厚い和音とか、彼流の和声進行とか、複雑な対位法とか。しかし、《ソナタ》には明らかなバッハの模倣がある。この曲に注目していたのは、ギヨー先生がセヴラックの《ソナタ》への影響を指摘していたからだ。ちょっと弾いてみると、これはむしろダンディの二人への影響なのかも、と思ったり、でもそこに「民謡風」(?)の音の動きがあるのは二人に共通で、ダンディにはないかな、と思ったり。しかし、まだまだ時間があるな……。やれやれ……。

方相氏

節分ということで、方相氏を。
四つ目がある方相氏は、もともと中国で宮中追儺式に鬼を払う役目をもった役人だったらしい。それが日本に輸入されて、時間が経つと共に、今度は追い払われる方(よい鬼?)に変ったということで、その辺りいろいろ考えることができそうだ。不可触賤民のこととか、ユダヤ人のこととか。

2012年2月2日木曜日

アフリカの印象

レーモン・ルーセル『アフリカの印象』(岡谷公二訳、白水社)読了。これもまあ時間がかかった。よくわかったのは「意味」なんてない、ということだ。そして印象的だったのは、ルーセルもまた音楽家であり(パリ音楽院ピアノ科でコルトーと同級)、チェス愛好家であったこと(ルーセル式という手があるそうな)。(さらにピエール・ジャネの患者であったことを付け加えよう。)この作品は「音楽」なのだ、それもぼくが『狂気の西洋音楽史』で述べたような意味で。ところで、レーモンとアルベールには何の関係もないんだろうか?

Le temps des cerises


《さくらんぼの実る頃 Le temps des cerises》は、パリ・コミューンに関連して語られる。その由来はこうらしい。(拙訳、ちょっと文法的にわからないところもあり。)

「彼らが最後の攻防戦をしていたとき、サン=モール通りのバリケードから一人の少女がやって来て、負傷者の手当などをしてくれました。彼らは、ここにいては死んでしまう、と彼女を逃がそうとしましたが、彼女はそれに逆らって残りました。すると間もなく大爆発が起こり、バリケードは粉々になって、巨大な残骸の中で全てが死に絶えました。その音は、サトリー収容所に捕虜となっていた私たちにも聞こえました。最後のバリケードの最後の瞬間のこの看護婦に、JB・クレマンが後になって、さくらんぼの歌を捧げたのです。その後、誰も彼女を見ませんでした。……コミューンは死に、それと共にいく千もの名もなき英雄たちも消えて行ったのでした。」
(ルイーズ・ミシェル『コミューンの歴史と思い出』1898年)

2012年2月1日水曜日

パリ燃ゆ

大佛次郎『パリ燃ゆ』(全6巻、朝日新聞社)読了。ルフェーブルを読んで、パリ・コミューンについてその分析に終始しているところに、物足りなさを覚え、その前書きにこの本のことが書いてあったので読んだ。やはりフランスどころか、ヨーロッパ全体を震撼させる重大事件であったことがよくわかる。もちろん登場人物として、よく知っているユゴーやら、ゾラやら、ゴンクールやらが出て来るが、彼らの他にも、例えばヴェルレーヌ(これは端役でちょっと登場)もランボーも関わっていたはずだ。そして、ドビュッシーの父親も(コミューン派として参戦)。そして、この事件直後に、サン=サーンスがビュッシーヌと国民音楽協会を作るわけで、彼もそしてもちろんダンディ(彼は普仏戦争に従軍している)、デュパルクもそこにいたはず。フォーレも。彼らは何をしていたのだろう?パリ・コミューンと地域主義の関係には以前言及したが、その他にもナショナリズムももちろん関係があって、だいたいコミューン結成の一つの要因は普仏戦争を敗戦に導いた政府の無能への反発もあったのだ。考えさせられるところ大である。
コミューン政府(中央委員会と公安委員会の名で)が出したポスター。
これはドゥレクリューズ(最後のコミューン指導者、バリケードで戦死)の名前で出された布告。
これは、コミューンの女性指導者であったルイーズ・ミシェル逮捕の情景。