見田宗介『現代社会はどこに向かうか ー 高原の見晴らしを切り開くこと』を読んだ。学生時代からずっと見田先生の本は読んで来て、影響を受けて来たが、最近はどうもしっくりこない感じがする。それは何かを考えて見た。
現代の情報化・消費化社会の変容について、それを脱高度成長期と捉えて、「高原」と名付けるところまではいい。その通りだと思う。この「高原」では、もうこれ以上の経済成長は望めないので、現在を楽しむ風潮が広まり、それほどのお金やモノはないけれども幸福という人々が増えている、という。この「永続する幸福の世界」(オビの言葉)がこれからの世界を支配するのだと。もちろん見田宗介は、未だにそのような段階に達していない国や文化の地域では、まだまだ生活の質を向上させ、最低限人間的な生活を送れるようにするという基本的な必要があるということは認めている。
しかし、……しかし、である。それでも、少なくともこの日本社会においては、見田の語るオプティミスティックな現代社会観にはある種の居心地の悪さがあるような気がする。本当に現代日本社会の人々は現在の生活に満足し、「いま」を享受しているのだろうか。
例えば、見田はそのような人々の意識を論じるに際して、NHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査の結果をもとにしている。そこでは「理想の家庭像」として「近代家父長制家族」という理想が崩れ、「夫婦自立」や「家庭内協力」のパーセンテージが増えたことが述べられる。女性は結婚して子どもが生まれても、職業を持ち続けた方がよいとされる。これを単に女性の権利が増大し、男女が平等になってきたからだとだけ言えるのだろうか。一見そうは見えるが、実は現代社会は夫婦で働かなければ生きていけないほど厳しい世の中になったのだ、とも言えないだろうか。
あるいは高度経済成長期には未来のために現在を犠牲にする「生産主義的、未来主義的、手段主義的な合理化」が支配していたが、現代社会はそのような「近代」の理念が崩壊し、未来よりも現在を充実させ楽しむ生き方が増えてきたとされるけれども、実際には未来が安心して生きていけるような気がしないので、「仕方がないので」現在に喜びを「無理にでも」見出そうとしている、ということはないだろうか。例えば、定年退職後の年金などはどうもきちんと貰えそうもなく、これからの日本社会もますます国家による規制が厳しくなってきそうだ、という予想が支配的な時に、未来に人生を賭けることは無謀ではないだろうか。
その他、魔術や占い、非合理的なものへの関心が高まっていることについても、見田は「近代合理主義的な世界像の絶対性のゆらぎと、その「外部」への予感にみちた、手さぐりの試行錯誤」と美しい言葉で語っているが、要するに余りに行き詰まる現代社会、明るい未来もなく、自由な行動も徐々に規制されて行くような息苦しさから、何とかして逃れようと非合理的な世界へ逃避しているだけなのではないだろうか。
私が余りに悲観的なのか、見田が余りに楽観的なのか、どちらなのだろうか。