「わたしは知覚的経験によって世界の厚みのなかへめり込んでいる」のであって、そういう世界への内属という関係を、対象としての世界とそれについての思考へと置き換える。そういう視線は、パースペクティヴのなかで対象との関係を考えるのではなく、まるで対象を俯瞰するように無視点的に考察しようとし、結果として「感覚の内的構造を破壊してしまう」のだ。………「見つけださなければならないのは、主観と観念と対象の観念のこちらがわにある、発生段階でのわたしの主観性の事実と対象であり、つまりもろもろの観念や事実が生まれでてくる原初的地層なのである」。……知覚するのは〈わたし〉ではなく、「ひとがわたしのなかで知覚する」というわけだ。(鷲田清一『メルロ=ポンティ』)この「知覚」を「音楽」と置き換えてみよう。音楽がわたしのなかで現実化する、そしてそのような音楽はまるでA地点からB地点までのドライヴのようなもので、そのように捉えた場合に「音楽作品」とはどのようなものになるか。道は地図上にも、現実世界にも、ある。しかしそれをドライヴ(現実化)しないと移動できない(演奏とならない)。
2021年12月6日月曜日
2021年11月29日月曜日
2021年9月22日水曜日
2021年8月23日月曜日
インド音楽とペルシア音楽
昨夜はCAP林間学校「インド音楽とペルシア音楽」に参加。HIROSさんと谷正人君の対談。即興(ラーガ、ダストガー、など訓練)・リズム・聴衆・日本人として、などの話題。
日本人としてインド音楽やペルシア音楽をやる意味について、フランスにまあまあ長くいて西洋音楽をやっていた私自身の経験も比較になりそうに思った。私自身、日本人の西洋音楽の演奏には「何かの違い」があるのではないかと思っていたのだが、自分の演奏がフランス人の演奏と違うのではないかと周りのフランス人に訊くと(お世辞もあるのかも知れないが)「いや、全く違いはないよ」という返事。しかしよく考えてみると、大抵のフランス人はいわば「しろうとさん」であって、音楽の微妙な機微などには全く無関係に普通に生きているのであった。そのような人に「違い」が解るわけもない。また、ではプロフェッショナル(先生とか)に訊いてみるとそれはひとそれぞれの違いに過ぎないということになる。最近、フランスのフルートの先生だかなんだかが「東洋人は機械的だ」みたいなことを言って物議を醸したが、これは例外(物議を醸すこと自体これが「普通」でないことを表している)。
尺八の志村先生も参加していて、ペルシア音楽の五線化の話のコンテクストの中で、邦楽も五線化するとつまらなくなる、という話をしておられたが、五線の本家本元の西洋音楽においても、実際に聴くと素晴らしい音楽が五線になってしまうととてもみすぼらしくなってしまうのはよくあることだ。どうしても五線楽譜は正確な音高以外はかなり切り捨てている要素が多いと思う。
2021年8月20日金曜日
近代・現代フランス音楽入門
磯田健一郎『近代・現代フランス音楽入門』(音楽之友社[オン・ブックス]、1991年)を学校の往復に読んだ。スコラ・カントルム、ミュジック・コンクレート、スペクトラル、ストカスティックなどに関する記述がすっぽり抜けているのは「聴き易さ」をウリにしたいからか。しかし全情報の出所がない上に、間違いや表記不統一など満載である。これではますますフランス音楽は「軽く」見られるだろうな、と思った。
2021年8月5日木曜日
檜垣智也アクースモニウムリサイタル
檜垣智也アクースモニウムリサイタルを聴いた。備忘録的に書く。
まず、彼の新作初演があるというので期待して行ったが、最初の前座的な小品だったので少々残念。あたかも舞台の分厚く重い緞帳のようで、それはそれなりの意味があるのだろうが。
続いてデュフール《知られざる大地》。相変わらず素晴らしい作品。さまざまな逸話的な音響とシェフェールの引用が鏤められていて(機関車の走る音と汽笛、《一人の男のための交響曲》など)、「Terra incognita」の二重の意味(物語的な意味とシェフェールがミュジック・コンクレートという未開の地を切り開いたこと)がまざまざと聴覚空間に耳への映像として繰り広げられる。第1曲の遠い海洋から「未知なる大陸」(「Terra incognita」は「処女地」という方が一般的だろうが、今時の用語法では差別的になるのか)への接近上陸、第2・3曲の「探検」と「征服」はあまり区別がつかないが、豊穣な意味は幻想を繰り広げる。そして第4曲フィナーレのアレグロ!
檜垣君は、彼の新作についてもそうだが、謙譲の美徳に従い過ぎている感あり。デュフール作品について「眠るには短く云々」など言っていたが(師匠の作品に多少失礼[笑])、もっと電子音響音楽は素晴らしいのだ、眠気など起こる隙はない、と喧伝しても宜しいのでは?音楽を取り巻く「言葉」の問題は非常に重要で徒や疎かにしてはならない、と思う。先日亡くなった私の師匠の渡辺守章が「ケージとブーレーズの違いは英語と仏語のシンタックスの違いだ」と言っていたのを思い出す。当時は「何を言っているんだ」と反発したものだが、今になって思えばいやなかなか本質の一端は衝いている。
そして20分休憩の後はベール《影の劇場》(これも「影絵芝居」のことだよね、しかしそう言ってしまうと子供向きの幼稚な印象を与えるかも知れない)。この作品こそアクースモニウムの真骨頂を極めたものだと言える。抽象的な音響がそれぞれのタイプによって然るべき位置に定位される。音響のソルフェージュを探究したシェフェールの正当な後継者であるベールは、空間についてもソルフェージュを開拓した。クライマックスは第一曲後半のぱちぱちはぜる音の集団で、これを檜垣は巧みに中央のスピーカー群に集中させた。この音響定位は見事。デュフール作品もそうだが、ベールのこの作品も非常に念入りに構築された部分部分の連続で出来ていて、それらの間にもさまざまな要素が多様な関係で配置されていることによって、全体の形式が練り上げられている。ベールの作品の抽象性がその作曲構築の見事さを際立たせていると言えるだろう。かつてどこかでベール作品をラヴェルの作品になぞらえた評論を読んだが宜なるかなである。
いずにれせよ、これらの電子音響作品が非常に素晴らしいものであることには間違いがない。檜垣君には今後も徒に謙譲の美徳に陥ることなく(笑)今後ますますこれらの音楽の市井への喧伝に努めて貰いたいと思ったのであった。妄言多謝。
2021年7月30日金曜日
モンポウ/ブランカフォルト往復書簡集全編オンライン化
私が翻訳したモンポウ/ブランカフォルト往復書簡集が全てオンラインで簡単に読めるようになりました。
My translation of Mompou / Blancafort Correspondence now available on line.
https://dwcla.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&meta=椎名亮輔&count=100&order=0&pn=1&st=1&page_id=13&block_id=21
2021年5月25日火曜日
湊谷亜由美コンサート
先日の日曜日に湊谷さんのコンサートに行った。久しぶりの対面コンサートでもあり、内容もとても良かったので感想を。