ひとまず秋学期の試験もおわり、成績も提出し、ひところの怒涛の会議攻勢も一段落したので、以前よりは自分の時間がもてるようになった。そこで奈良ゆみさんの歌ったフォーレを聴くことにした。
フォーレ『イヴの歌・閉ざされた庭・幻影・幻想の水平線』奈良ゆみ(ソプラノ)、モニック・ブーヴェ(ピアノ)、コジマ録音(ALM RECORDS ALCD-7207)
ガブリエル・フォーレ(1845〜1924)晩年の4つの曲集である。それぞれ作品番号でいえば、95、106、113そして118である。順番に1910年、1914年、1919年、そして1921年の作品。フォーレ65歳から76歳までのあいだに書かれたことになる。
私はピアノの方が親しいので、同時期の作品はどんなものがあったかをみてみると、この時期は《前奏曲集》作品103(1910年)、嬰へ短調の《夜想曲》11番作品104の1、イ短調の《舟歌》10番作品104の2(1913年)などではじまって、1916年に《第2ヴァイオリンソナタ》作品108、あとは大規模な曲として1919年から1921年にかけて書かれた《第2五重奏》作品115、《第2チェロソナタ》作品117(1921年)、そしておわりの方に例の《ピアノトリオ》作品120(1923年)と最後の作品である《弦楽四重奏曲》作品121(1924年)がある。
フォーレの晩年のスタイルはわかりにくい、とよくいわれる。一聴、人をひきつける魅力的な響きが、もはやないためだ。じつは中期の作品だって、たとえばその和声の動きは簡単に説明できるようなものではなく、けっしてわかりやすいわけではないのだが、響きの美しさにわたしたちは惑わされてしまうのだ。その絶え間なく変化する和声は、晩年になるにつれて、ますます流動的になっていく。そして、逆説的なことだが、「うた」を「うたって」いるはずの歌曲というジャンルから、たどっていけるような旋律線が希薄になっていくのだ。わたしたちに認識可能なメロディーは、まだ室内楽作品の方に残っている(ピアノ作品は、歌曲と室内楽の中間的な存在にみえる)。
ヴァイオリンやチェロは「うたう」のだが、人は「うたわない」。どうするのか、「かたる」のである。晩年の歌曲の世界は、明快でくっきりした輪郭をもった昼の世界と、あやめもわかぬ漆黒の闇夜の世界のあいだの中間の世界を表現しようとする。どちらかはっきりとした世界ならば「うたう」ことも十分に可能であろう。しかし、この幽明境を異にした夢幻郷では、人は「うたえない」。「うたう」のは異界の存在、妖精であったり、幻影であったり、月の女神であったりする。が、人は基本的に「かたる」。だが、その「かたり」は、ときに高揚し、「うた」に近づくときもある。
奈良ゆみは、そのような作品を「うたう」のに、まさにうってつけである。彼女の声は「うたって」いるのだろうか。《幻影》と《幻想の水平線》の2連作は、ふつうは男性歌手のレパートリーとなっている。男性歌手はやはりどうしても女性の声よりも響きの多い、ということは輝きにそのぶん欠けた声で演奏するものである。だが、奈良ゆみは、たとえばそのようなジェラール・スゼーよりも、さらにまた表面的な滑らかさとは無縁の声で表現する。輝きがないというのではない。それはちがった種類の光なのだ。
私は、シャルル・パンゼラとディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウを比較して、前者の歌に響いている「声のきめ」について語ったロラン・バルトを思い出す。バルトにとって、「うた」の本質的表現とはこの「きめ」によって可能になるようなものだった。ゆみさんの「声のきめ」? もちろん、ある意味ではそのようにいうこともできるだろう。しかし、パンゼラとゆみさんではちがう。これはなんなのだろう。
このディスクは一度さらっと聴いただけではわからない。付属の解説や詩の翻訳を読んでもわからない。私は研究室で楽譜を引っ張り出してピアノで弾いてみた。自分で実際にピアノでゆっくりと鳴らしてみるとわかる音の響き、とくに和声の動きというものがある。さきほど、「うた」にかんして、室内楽と歌曲を比較して論じたが、和声についても似たようなことがいえそうである。つまり、室内楽とくらべると歌曲における和声の変化はスピードがはやい。1小節あるいは半分、もっとはやいときは、一音ずつでも和声がめまぐるしく変わる。わたしたちの耳はこれについていけず、調性感は安定せず、これが理解をむずかしくしている。(ピアノ曲はここでもその中間にあるようだ。)
しかし、和声の質は同時期のほかの作品と共通のものが多くあることが確認できたとおもう。すなわち、和声が頻繁に変化するとはいっても、なにか突飛な無関係なものが出てくるわけではなく、微妙な半音の変化、あるいは異名同音をつかったすばやい転調、旋法性と調性のあいだをいくような音使い、そして半音ごとあるいは一音ごとの(しばしば旋法性をともなった)ゼクヴェンツ。そして、これらが詩の世界と結びつく必然から導入されていて、こういう点は少しずつみていくしかない。
じっさいに私は、ピアノで弾きながら自分の指と耳で確かめたあと、もういちど、こんどは楽譜を見ながらじっくりと聴きなおした。(しかし全音の楽譜はどうもミスプリが多いようだ。たしかにフォーレの頻繁かつ微妙な転調が校正をむずかしくしているのだろうが……。)
《イヴの歌》はその発想のみなもとをメリザンドにもっている。事実関係としてフォーレは、1898年のメーテルリンク『ペレアスとメリザンド』ロンドン公演のために書いた付随音楽と同時に、劇中で英語で歌われる「メリザンドの歌」を作曲したのだが、この素材を1906年から書きはじめる《イヴの歌》に用いているのだ。ジャン=ミシェル・ネクトゥーは、当時フォーレは出版社と3年間に30曲を提供する契約を交わしていたので、未出版の過去の作品をいろいろと探して、英語の歌詞という理由でフランスでは未出版だった《メリザンドの歌》を再利用したのだ、とかなり散文的な説明をしている。しかしわたしたちはここにさまざまな暗号をみてとらざるをえない。どこの国から来たともわからない、かそけき存在の王女、幸薄いあえかな恋愛を生き、ひそやかに死んでいくメリザンド。この現実と非現実のあわいの、はかなく美しいヒロインの世界をフォーレはイメージとしてもっていたのではないだろうか。このまさに世紀末ベルギー象徴派的な世界。《イヴの歌》の作者、ベルギーの詩人、シャルル・ヴァン・レルベルグもそこにとっぷりと浸かっていた(メーテルリンクと彼は友人である)。さらには、ヴァン・レルベルグ自身が《ペレアス》ロンドン公演を観にきており、深い感銘をうけたということもあった。フォーレはこのときには、詩人も、その詩もしらなかったようだが、《イヴの歌》作曲時になにも考えなかったということはないだろう。
いずれにせよ、この曲集がフォーレの歌曲のスタイルの大きな転換点になったことはまちがいない。晩年のスタイルといってもいい。ネクトゥーもそれは認めているが、アリアというよりもレチタティーヴォにちかい抑揚の少ない旋律線について、ドビュッシーの《ペレアス》の影響をほのめかしたりしているが、それもないことはないだろう(ラヴェルの《トリオ》に刺激されて、フォーレが彼自身の《トリオ》を書いたことをおもえば)。しかし詩のテクストの意味やリズムを大事にする作曲家のやり方としては、ほとんどこれ以外にないのもたしかである。
詩と音楽の関係はじつに巧みにあつかわれていて、第1曲〈楽園〉からたとえば、イヴが目覚めてみずからの足元に世界が「美しい夢のように」ひろがっているのを見る場面は一種のクライマックスを作るのだが、歌がこの曲で一番の高音(といっても二点ホだが)をフォルテで歌ったあと、ピアノが天上のエデンの園のイヴの足元から徐々に下界に降りていくのである。そして神の「[下界に]行きなさい」という言葉につづくパッセージは、つねにピアノの下降音型をともなっている。そしてイヴが「うたう」のである。それが静謐な第2曲〈最初の言葉Prima verba〉につづく。このラテン語のタイトルのニュアンスはなんだろう。歌詞は聖書の物語なのだから教会ラテン語なのだろうけれども、音楽にはなんのいかめしさもない。まさにかそけき官能性に溢れた「喜びに満ちた沈黙」である。
第3曲〈燃えるような赤い薔薇〉(翻訳には出てこないニュアンスだが「燃えるような赤い」と訳されている「ardent(e)」の語には、「燃える柴buisson ardent」のエコーを聞き取らないといけない。聖書の出エジプト記第3章で「主のみつかい」がモーゼに現れる場面である)は、出色の演奏だ。とくに18小節目から19小節目にあらわれるホ長調からハ長調への突然の転調は、歌詞が突然に「深い海よ」とテーマを変えることに由来するのだが、ゆみさんの声も「深く」なり、そしてモニックのピアノの低音がまさに深々とハ音を響かせる。この感動はすばらしい。そして最終音はまた最高音の二点ホで「神」にまで到達する。
第5曲〈白い夜明けL’aube blanche〉はまさに中期の傑作《優しい歌》の第3曲〈白い月La lune blanche〉と好一対をなす(だいいちフォーレ自身この二つの歌曲集を対照的な対をなすものと考えていた)。同じ「白さ」が、一方は夜の月、一方は朝の太陽を表現する。最後の「愛amour」のゆみさんの声のふるえが伝えきれないものを伝える。次の〈生命ある水〉のピアノパートは、同時期のピアノのための《即興曲》第5番嬰へ短調作品102と、テンポは違うけれども、深い関連がある。もちろんこの16分音符の絶え間ない動きは、「活き活きしたvivant(e)」水を表現しているのだが、最後には海から空へと上昇していく。〈白薔薇の香りのうちに〉の最後も、ピアノの音型が沈黙の中で揺らぎながら、かそけく落ちていく花弁を表現していて、歌とピアノの巧妙な交響がみぶるいさせる。
そして〈黄昏〉と〈おお、死よ〉の最後の2曲。この曲集で最初に書かれたのが〈黄昏〉らしいのだが、「メリザンド」のテーマがさまざまに変容され、幸福のさなかに涙する声、吐息をつく声が問いかけられ、それが〈時間〉の中で(未来の声、過去の声)忘れられた「楽園」を夢見るのだ。「終わりの始まり」を意識したフォーレの選択とはいえないだろうか。そして曲集は最後の〈おお死よ、星の亡骸よO mort, poussière d’étoiles〉につづく。しかしタイトルの「poussière」を「亡骸」と訳すのはまちがいで、ここにも聖書のエコーを聞き取らなければならない。主なる神は人間を「土の塵poussière de terre」で形つくったのであり(創世記第2章)、まさにイヴがいたエデンの園について語られる創世記第3章で人間は「塵にすぎないお前は塵にかえる」といわれているのだ。しかし、ヴァン・レルベルグは「土の塵」ではなく「星の塵」とすることで、死を重苦しい密度に満ちた暗黒ではなく、軽やかな黄金の壺から注がれる神々しい酒として提示する。
《閉ざされた庭》もまた同じ詩人の詩による歌曲集だ。しかし今度は聖書の世界ではなく、むしろ古代ギリシャ・ローマの世界の「庭」、それもおそらく廃墟となった屋敷跡に、やぶれた枝折戸によって「囲われ」「閉ざされた」それなのだ(「廃園」の詩的ニュアンス。明治の象徴派、三木露風を思い出そう)。これらの詩が含まれている詩集の名前は『瞥見Entrevisions』といい、「閉ざされた庭」はその中の一部分の名前にすぎない。しかし、これを歌曲集のタイトルにもってきたところにフォーレの文学的感覚の鋭さがよくあらわれている。曲調は全体に明るい。直接に「春」をうたった曲が3曲もある(〈春の死者〉、〈私はあなたの心にそっととまるでしょう〉、〈薄明かりの中で〉)し、〈ニンフの神殿にて〉でも「ジャスミンの花」が歌われているのだからこれも季節は春だ。
ジャンケレヴィッチが正しく指摘しているように、1曲目〈叶えられる願い〉(全音楽譜の訳は「聴きとどけ」で、どちらも隔靴掻痒である。「exaucement」とは願いの叶うこと、成就すること)は、アルベール・サマンの詩につけた名曲《夕暮》作品83の2をそのまま引用している。そこでは「夜の庭でなにかが死んでいくのが聞こえる」とやさしく恋人にかたりかけられていた。〈春の使者〉の中間部や〈薄明かりの中で〉の後半部分で聞こえてくるピアノ伴奏の空虚五度の連続は、まさにフォーレ節なので私はぞくぞくするのだが、フォーレ節といえば〈私はあなたの心にそっととまるでしょう〉の冒頭のメロディーのまさに旋法的な「節回し」、「Je me poserai sur ton coeur」のちょうど「心coeur」の部分に現れるピアノの変ニ音は、ここからフォーレ的な異教的なひそやかで伸びやかな世界が羽ばたく端緒なのだ。素晴らしい予感に満ちている。
しかし絶唱はなんといっても〈砂の上の墓碑銘〉である。ピアノの導入部に現れる右手と左手で交互にたたかれる三度の連続、この寂しさは私には、アルノルド・シェーンベルクが自らの師グスタフ・マーラーの死を悼んで書いた《6つのピアノ小曲》作品19の6を思いおこさせる。(6番Sehr langsamの音程は上から完全4度・長6度(右手)、完全4度・完全4度(左手)だけれども、同じ曲集の2番Langsamではフォーレと同様に三度が支配的だ。)一般にこの曲集《閉ざされた庭》にもあまりメロディーに大きな音程の跳躍は使われていないのだが、この曲も二度や三度の音程で、たゆたっている旋律が徐々に高まっていって、ついにその楽想は「滅びることのないダイヤモンドimpérisables diamants」で一挙に五度上行する。しかしこのクライマックスにもフォーレはmfしか指示しない。ゆみさんのニュアンスは絶妙である。墓の前で人は声をあらげることはないのだ。そして終結部ははっきりとしたホ音の上のドリア旋法の魅力をたっぷりと聞かせる。「Les pierres éternelles(永遠の石)」の「éternelles」の部分、そして「l’image de son front(彼女のひたいの影)」の「image」の部分にある嬰ハ音がかなめなのだが、これは、はしなくもフォーレの《ペレアスとメリザンド》前奏曲と同じ雰囲気をもっている(基本的にはト長調なのだが、しばしばホ短調、それも嬰ハ音をともなっている)。また同じドリア旋法で恋人の死を悼む、モンポウの〈君の上には花だけが〉(《夢の戦い》第1曲)も思い出される。(訳詞には「front」の語が訳されていないが、詩においてはこれこそがかなめなのだ。芥川が自殺直前に語っている「月の光の中にあるような彼女の顔」(『或る阿呆の一生』)とはこのことなのだ。)
《幻影》では、第2曲〈水に映る影〉に見られるフォーレの「抽象的なリアリズム」に注目したい。フォーレの音楽は、ネクトゥーがバシュラールとメシアン(なんという組み合わせ!)を援用しながらいみじくも指摘するように「連続性が支配」しているのだが、ここでは極めて稀な純粋な沈黙があらわれる。この沈黙の表現力の素晴らしさはどうだろう。全てが口をつぐんだ後にはじまる、「Si je glisse, les eaux feront un rond fluide...(私が滑ると、水はゆるやかな輪を作るだろう)」のところでピアノが基本の変ロ長調とは全く関係のないイ長調の分散和音で初めは八分音符の三連符、ついでスピードが弱まり八分音符になる。「un autre rond... (もうひとつの輪)」でそれがより短く繰り返され、ついで「un autre à
peine... (もうひとつかすかに)」でより短く音もより少なく、そして沈黙。そして曲は終結部につづくのだが、そのつづき具合が奈良ゆみの「Quasi parlando(ほとんどかたるように)」で、しずかに「魔法の鏡」の沈黙がうたわれるのだ。表現のない表現とはこのことだろう。
その「沈黙」は次の〈夜の庭〉でも支配的だ。この「夜の庭」は前作の「閉ざされた庭」であるといっても過言ではない。夜のしじまに聞こえてくるのは「円水盤」から一滴一滴としたたり落ちるかすかな水音しかない。ここで思い起こされるのはもちろん、あの《月の光》作品46の2で歌われた「大理石のあいだ」で「美しく静かな月の光」に哭かされる「ほっそりと背の高い噴水」である。しかしかつて月の光のもとで高らかに響いていた水音は、ここでは本当にかすかなものとなっている。そして最後の「踊り子」(全音版では「舞姫」)が、古代の踊りをクロタルのリズミカルな響きにあわせて踊る。しかしその踊りを踊らせているのは「ma flûte creuse(虚ろなフルート)」であり、それを吹いているのは……フォーレその人? ここには虚しい陽気さがある。作曲家はおのれの最後をみつめているのだろうか。最後の言葉は「Vaine danseuse(むなしい踊り子)」である。ゆみさんの歌い終わりは悲しみにみちている。
最後の《幻想の水平線》は第一次世界大戦で若くして戦死した詩人の詩に曲をつけたもの。この最後の曲集では、逆説的にフォーレはある種の若さを取り戻しているようだ。しかしその「若さ」は老境に入ったものの後悔と苦渋にみちた、しかし同時に諦念とともにある種の甘美さもともなった、想起に見える。つまり、ここにあるのは、かつての航海の思い出、若かったころの冒険にはやる躍動するこころ(はじめの2曲)、置き去った苦しみ(〈私は船に乗った〉)、疲れ乱れた心への癒しのもとめ(〈月の神〉)、そして大いなる悔恨(〈船たちよ、〉)である。奈良ゆみの抑制された表現は、モニックの支える「船」に乗って、最後の一語「満たされぬ大いなる出発」にまでわたしたちを引っ張っていく。詩人にとって、またフォーレにとって、この「大いなる出発」とはなんだったのだろうか。そして、わたしたちにとっても……。