2026年5月11日月曜日

拙著『デオダ・ド・セヴラック』批判について

 


アマゾンなどで拙著『デオダ・ド・セヴラック』の項を開くと真っ先にこのような一般読者の批判が目に入る。それによれば、拙著はインターネットの検索で得られる情報と「ひけらかし」が書かれているのみの駄作だとある。私は拙著の後書きで森鴎外『渋江抽斎』へことさらに言及しているのだが、この筆者はそこには注目しなかったようだ。これは拙著を読み解くための大いなる導きなのであって、この批判子の言葉は実は森鴎外御大への直接的な批判となってしまっている。なぜなら拙著は実を言うと『渋江抽斎』の構成をその内容とともに忠実になぞって書かれたものだからだ(ラヴェルが『ピアノ協奏曲』第二楽章をモーツァルト『クラリネット五重奏曲』をなぞって書いたのと同じ)。そのことを読者に密かに知らせるために後書きで言及したのだが、今までひとりとしてそこに気づいた者はいなかった。もちろん、そのような奇特な人物がありようもないのは私もじゅうじゅう承知している。しかし、おそらく吉田秀和氏はそこに気づいておられたので、その二重の努力を買ってくれたのであったと思っている。しかし、べつの意味では、批判子の言うことはまったくもっともであるとも言える。だれでも手に入れることのできる情報と、それに関連する自らの体験・知識を並べているだけでは、何の能があるだろうか。それを偉大な先人の導きによってひとつの作品に仕上げることこそが、ある一定の意味のある仕事といえるのではないか。おそらく拙著はその「まねび」が、一般読者にも目に立つような綻びをもっておったのであろう。すでに執筆から15年が経過し、いま現在に少しでもそれより向上できていることを祈るばかりである。