2011年5月17日火曜日

Poésie 承前

Poésie のあるなしのこの感覚を伝え得ないというのは、何と歯がゆいことだろう。それはある種の「記憶」に彩られていると言おうか。プラトン的な「想起」?

POESIE

ポエジーとは何か。音楽でも、風景でも、さらには詩でさえ、ポエジーがあるものとないものがある。人間についてはなおさらである。ポエジーがないものを考えた方がわかりやすいか。計算高い人間とか、日常から離れられない人間とか。ようはつまらないもの?それではあまりにおおざっぱか?

またまた

電車が止まっています。なんでこんなに故障が多いかね。ぼくが以前に日本にいた頃は(90年代初めまで)こんなことはなかったように思う。まあ以前にいたのは東京だが。この時間に考えたことだが、自分の求めているものは何かということで、結局それは「ポエジー」なのではないかと。詳しくはまた。

福島原発とアウシュヴィッツ

続いて言えば、アイヒマン(「陳腐な悪」の体現者)と福島原発関係の人々を対比することが可能だろうか?アイヒマンはただただ忠実に上官の命令に従っただけだった、それが何万人ものユダヤ人を虐殺することだったとしても。福島原発で働いていた人々もまた、上の人間の命令に従っていただけだった……。しかし……。

アドルノとアウシュヴィッツ

以前に岡田暁生が今回の大震災とアウシュヴィッツを混同していることを批判したが、考えてみると、それは福島原発事故が人災であってアウシュヴィッツも人間のしわざであるという意味で一緒にしているのだろう。しかし、アドルノが言っているのは、私の意見ではこうだ。「詩」というものは、「言葉」とその意味するもの(「現実」?)との間の「たわむれ」で成り立っている。しかしアウシュヴィッツにおいては、「言葉」そのものが「現実」と全くずれがなく、くっついてしまっている非情な(といっても足りない)世界である。「Arbeit macht frei」という言葉は「死」(以上のなにものか、とも言える)を意味する。もっと言えば「意味する」などとも言えない、ガス室直結のなにものかである。「Arbeit macht frei」はナチスの最悪の冗談(もともとは言葉と意味との遊び)である。遊びがないという遊び。「詩」はもともとはそのような遊びだったのに、アウシュヴィッツではそれがマイナスの遊びになってしまった。そしてまた、遊びとはそれに関与する本人がするべきものだが、アウシュヴィッツではそれは本人ではなく「彼ら」がするのである。

2011年5月15日日曜日

Charles Mouton

ついでに、Charles Mouton のやはり Canarie も相当いい。これはリュートのための曲集第一、Premier Liure 組曲イ短調の中にある。

Ennemond Gaultier

Ennemond Gaultier のリュートのための作品、les Canaries du Vieux Gaultier はとてもよい。