この間の京都でのケージ・コンサートで、柿沼さんから『春秋』2012年11月号を貰ったのだった。今日の入試二日目の通勤途上で電車の中で、読んだ。「現代音楽」を専門にする若い音楽学者が育っていることに、ちょっと安心。以下は感想。
三橋圭介『ジョン・ケージ・ショック』は、よくまとまったケージ思想の紹介。ここから、どう行くか、だね。ケージがニューヨークの音を聴いた、とか、電車の中でぼんやりして音を聴く、とか、から今度はひるがえって(おお、翻る!)、そんな日常で音を聴く体験がなぜ特権的になれるのか、とか、つまり、普通は聴いていないのに、聴いてみるとよかった、というのは、何となく予定調和的なのであって、普通は聴かない、ということは、どういうことなのか、ということを問うてみる必要がある。聴くということは、とういうことなのか。そんな意味で、もちろん、音から意味を聴き取らない聴き方(ケージ)に正反対の、リュック・フェラーリ的な、音には意味がいっぱいあるからこそ面白い、という態度はどうとらえるべきなのか、考えてみよう。音から意味を取り去るというのは、実は、けっこう「前衛的」でブーレーズだって、ある意味で、それを目指しているわけだ。
中川克志『現代音楽の「現代」ってなに?』も、よくまとまって、わかりやすい。ただ、今、仕事の必要があって、フランシス・バイエールの『シェーンベルクからケージへ』をちゃんと読み直しているのだが、彼のように本当にきちんと現代音楽をいちいち分析して行くと、いわゆるヨーロッパ流の「前衛」も、決して一枚岩ではなくて、ブーレーズだけで代表させられては困る、という感じがする。シュトックハウゼンだって、あの人は、千変万化だしなあ。クセナキスは?
そして、柿沼さんの『ケージ以後の音楽』。これもとても要領よく、ポスト・ケージの流れを紹介してくれて、とっても役に立つんじゃないだろうか。グレン・ブランカについては、これも大里さんから教わって、そのもの凄さにちょっとついていけなかったのを覚えている。そして、もちろん、ヴェルヴェットもぼくにとっては大里さんからの御教示である。でも、どうも、ぴんと来ませんでした。今度ちゃんと聴いてみます。すみません、柿沼さん。(でも、イーノは好きですよ。ペンギン・カフェも。この流れに、例のピンク・マーティニー[&由紀さおり]もいる感じですね。)
寒川晶子『ケージを再演しながら考えたこと』では、このようにして、ケージが再解釈されて行くんだな、と思いました。ぼく個人的にはちょっとだけ違和感もないわけでもないが、ケージはいつものように笑っているんだろうな。