2010年12月16日木曜日

寒さ

やっと本格的な寒さ。しかし、去年のヨーロッパの寒さの比ではない。飛行機が飛べないくらいだったからね。今年もヨーロッパには強い寒気が到来しているようだが。いずれにせよ、あれからもう一年たったかという感慨しきり。

2010年12月13日月曜日

狂気の云々

拙著の題名は、あるいは「オペラの狂乱の場(?)」、あるいは「70年代ロックの……」というものを思い起させるらしい。

世界観

「世界観」という言葉の誤用にいらだつ今日この頃(いやもっと前からですけどね)(苦笑)。La vision du monde あるいは Weltanschauung などとは何の関係もないんだもの。ぼくがこの語を知ったのは、Alain Rocher 先生が Lucien Goldman の本を教材に取り上げたからだった。書名は Dieu caché 、翻訳もあるようだ(『隠された神』)。

サン=サーンス/フォーレ

サン=サーンス/フォーレ『往復書簡集』読了。何と表面的な付き合いだろう。というよりも、これで足りていた両者の厚い友情ということか。

2010年12月12日日曜日

比嘉康雄

比嘉康雄の写真についての番組。沖縄の祖霊神信仰。姜尚中氏がよいことを言っていた。沖縄はローカルだと思われているが、その底には(記憶の底)全ての人類に共通のものがある。民族とかローカルなものは、人類共通の普遍的なものの一片の現れに過ぎない。音楽もそうだ。先日、大学案内のゼミ紹介のインタビューを受けて、音楽とは我々の人生そのものだ、みたいなことを言ったら、インタビューをしていた女の人は首を傾げていたが……。ダニエル・シャルルも全く同意見だったのを思い出す。音楽はそれぞれに民族的だったり、ローカルだったりするが、実はその「記憶の底」では普遍的だ。逆も言える。その底では共通のものが、その現れではかくも多種多様でお互いに理解不能にまで至る。ぼくがプラトニズムに魅かれるのは、そこにこのような音楽のアナロジーを見るからだろう。そして、そのことはヘーゲルの「精神」もショーペンハウアーの「意志」も同じである。ぼくの『音楽的時間の変容』で言及した "Le musical" もまさしくそれだ。そして、この考えは大里俊晴さんの考えから影響を受けている。(彼のグールド論。)

2010年12月10日金曜日

共感覚

木村敏氏は著書の中で LSD 服用の際の「共感覚 synesthésie」の話を書いていたが、そのような薬物によらないでも日常的にそのような感覚を持っていることにも触れていた。有名なのは、音と色彩が結びついたメシアンの例だろう。しかし、二つ以上の複数の感覚が結びついていることもあり得るだろう。そしてそこに「記憶」が結びついていることもありそうだ。すると「記憶」ももう一つの「感覚」なのだろうか。しかし、翻って考えてみるに、我々の日常の経験がすでに、常に全ての感覚を動員して構成されているということがある。一つの感覚だけをわざわざ取り出す方が特殊である。それらを結び付けるのが「記憶」なのか?プルーストの例をよく考えてみよう。
そんなことを考えたのも、ふと昔にフランス語の単語を覚えていた時の感覚を思い出したからだ。その時の視覚・触覚などなど、総合的な経験。またこれは、プルースト的な「無意思的記憶」ではない。意思の力で呼び起こすことが可能だ。
また、それと同時に、今ここにいてまるで「異邦人」であるかのような感覚を呼び起こすこともできる。これは心理的に過酷な状況においては、それをやり過ごすに適した方法である。私は今ここで展開されている現実には直接には「関係」がない。

サン=サーンス

ミヒャエル・シュテーゲマン『サン=サーンス』(西原稔訳、音楽之友社)の中に、やはりサン=サーンスのユダヤ出自の問題があったことが語られている。生前から、反対派によってそのようなデマが流されていたと言う。著者自身はそれを否定しているようだが。どうなのか。