2010年12月10日金曜日

共感覚

木村敏氏は著書の中で LSD 服用の際の「共感覚 synesthésie」の話を書いていたが、そのような薬物によらないでも日常的にそのような感覚を持っていることにも触れていた。有名なのは、音と色彩が結びついたメシアンの例だろう。しかし、二つ以上の複数の感覚が結びついていることもあり得るだろう。そしてそこに「記憶」が結びついていることもありそうだ。すると「記憶」ももう一つの「感覚」なのだろうか。しかし、翻って考えてみるに、我々の日常の経験がすでに、常に全ての感覚を動員して構成されているということがある。一つの感覚だけをわざわざ取り出す方が特殊である。それらを結び付けるのが「記憶」なのか?プルーストの例をよく考えてみよう。
そんなことを考えたのも、ふと昔にフランス語の単語を覚えていた時の感覚を思い出したからだ。その時の視覚・触覚などなど、総合的な経験。またこれは、プルースト的な「無意思的記憶」ではない。意思の力で呼び起こすことが可能だ。
また、それと同時に、今ここにいてまるで「異邦人」であるかのような感覚を呼び起こすこともできる。これは心理的に過酷な状況においては、それをやり過ごすに適した方法である。私は今ここで展開されている現実には直接には「関係」がない。