2012年1月5日木曜日
2012年1月4日水曜日
好きか嫌いか
アラン・フルニエ『グラン・モーヌ』を読んでいて、「旅芸人」の語注にジプシーだの、ロマだのの話があって、その参考文献に今橋映子女史の著書があがっていて、何となく嫌な思い。彼女の専門はパリ関係の日本文学史なのだが、フランス系だし、家が小平ということで学生の時は親近感をもって接しようとしたのだが、変なバリアがあった。ミザントロープであることは非難するべきでもないので(ぼく自身そうだ)、ほおっておいたが、その研究態度がどうも不信感を呼んだ。彼女は別にフランスとか、パリとかは好きではないのだ(留学などしていないはず)。それは単なる「学問対象」に過ぎない。いわば「飯のタネ」である。これだって百歩譲って、仕事そのものを好きでなければいけないという法はない、とも言える。しかし……。不信感は残るよねえ。何で好きでもないものを研究しようとかするわけ?やっぱり、金になるとか、名誉になるとか?いやはや……。同じ印象を受けたのが、東大仏文の松村剛と……、(小さい声で)MN女史である。
水晶(再掲)
シュティフター『水晶』(手塚富雄・藤村宏訳、岩波文庫)読了。普通の人々がそのそれぞれの環境の中で普通の生活を営んでいる、それが尊い。この態度はジャン・ジオノにも共通する。そして我らがデオダ・ド・セヴラックにも。これを小市民的であるとか、ビーダーマイヤーだと言って非難するのもあるだろう。しかし、ますます実感するのだ、普通が一番だと。というよりも普通というのがいかに難しいものであるかと。何もないこと。ほとんど何もないこと。おお、リュック・フェラーリ。彼もまた同じことを考えていたのではないだろうか。シュティフターを晩年のシューマンが非常に好んでいたのもよくわかる。シュティフターはまた画家でもあった。下はその作品。
ウィーン郊外の家々Wiener Vorstadthäuser
2012年1月3日火曜日
水晶
シュティフター『水晶』(手塚富雄・藤村宏訳、岩波文庫)読了。普通の人々がそのそれぞれの環境の中で普通の生活を営んでいる、それが尊い。この態度はジャン・ジオノにも共通する。そして我らがデオダ・ド・セヴラックにも。これを小市民的であるとか、ビーダーマイヤーだと言って非難するのもあるだろう。しかし、ますます実感するのだ、普通が一番だと。というよりも普通というのがいかに難しいものであるかと。何もないこと。ほとんど何もないこと。おお、リュック・フェラーリ。彼もまた同じことを考えていたのではないだろうか。シュティフターを晩年のシューマンが非常に好んでいたのもよくわかる。シュティフターはまた画家でもあった。下はその作品。
ウィーン郊外の家々Wiener Vorstadthäuser
ウィーン郊外の家々Wiener Vorstadthäuser
2012年1月1日日曜日
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