2022年3月27日日曜日

シンポジウム「上海フランス租界史研究」後に仲の池まで散歩

 午後の長い時間「上海フランス租界史研究」シンポジウムをズームで聴講したので、背筋を伸ばすために仲の池まで散歩。

シンポジウムの感想を忘れないうちに。
シャルル・グロボワがラジオ番組で2時間クラシックを聴かせたという話で、すべてがレコード演奏だったというので、それをどのように調達したのかを質問したけれど、シベリア鉄道経由で苦労して入手とか、上海地域のレコード所有者に呼びかけたとのこと。しかし、その曲目選択にはグロボワの趣味が強く反映されていたのでしょうね、とても保守的でした。20年代、30年代は「六人組」全盛期だけれど、ひとつもなかったし。もちろん「新ウィーン楽派」などない(レコードがなかったかもしれないが)。ヒンデミットもない。でもソヴィエト作曲家がいるのが不思議。収集されたレコードはどうなったのだろう。図書が日本の日仏に来た話はあったが。
グロボワがスコラ・カントルム出身というのも興味深い。ヴァンサン・ダンディゆずりの頭でっかち、保守派というのはここから来ていそう。同時にルーセルのような非ヨーロッパ文化へのまなざしも影響があるか。
上海関連では、ぼくの頭にはすぐに富永太郎が浮かぶ。当時はたしかに日本人にとって「すぐそばのパリ」だった。しかし、彼が上海にわたってどうやって生きていこうとしたかというと、「日本人にフランス語を教える」だったのが興味深い。
もうひとつはフランスで有名ピアニストだったYoura Gullerが戦中・戦後の混乱期に上海に数年生きていたという話。これは証拠はないようだ。彼女の場合は、ユダヤ系なので、どこのコミュニティにいたのか興味深いところだ。






2022年3月22日火曜日

梨のかたちをした30の言葉

 サティの言葉を30集めて詳細なコメントを付しました。単におもしろいだけではなく、彼の「真の」(?)すがたが現れてきます。5月刊行予定。


https://artespublishing.com/shop/books/86559-250-4/


2021年12月6日月曜日

メルロ=ポンティ

 「わたしは知覚的経験によって世界の厚みのなかへめり込んでいる」のであって、そういう世界への内属という関係を、対象としての世界とそれについての思考へと置き換える。そういう視線は、パースペクティヴのなかで対象との関係を考えるのではなく、まるで対象を俯瞰するように無視点的に考察しようとし、結果として「感覚の内的構造を破壊してしまう」のだ。………「見つけださなければならないのは、主観と観念と対象の観念のこちらがわにある、発生段階でのわたしの主観性の事実と対象であり、つまりもろもろの観念や事実が生まれでてくる原初的地層なのである」。……知覚するのは〈わたし〉ではなく、「ひとがわたしのなかで知覚する」というわけだ。(鷲田清一『メルロ=ポンティ』)この「知覚」を「音楽」と置き換えてみよう。音楽がわたしのなかで現実化する、そしてそのような音楽はまるでA地点からB地点までのドライヴのようなもので、そのように捉えた場合に「音楽作品」とはどのようなものになるか。道は地図上にも、現実世界にも、ある。しかしそれをドライヴ(現実化)しないと移動できない(演奏とならない)。

2021年11月29日月曜日

芦屋市令和3年度冬の公民館講座への賛助出演

 芦屋市公民館の「冬の公民館講座:音楽史へのいざない ー 阪神間モダニズムの音楽」の細川周平さんの回に賛助出演いたします。



2021年9月22日水曜日

月見れば……

 千々にものこそ……





2021年8月23日月曜日

インド音楽とペルシア音楽

 昨夜はCAP林間学校「インド音楽とペルシア音楽」に参加。HIROSさんと谷正人君の対談。即興(ラーガ、ダストガー、など訓練)・リズム・聴衆・日本人として、などの話題。

日本人としてインド音楽やペルシア音楽をやる意味について、フランスにまあまあ長くいて西洋音楽をやっていた私自身の経験も比較になりそうに思った。私自身、日本人の西洋音楽の演奏には「何かの違い」があるのではないかと思っていたのだが、自分の演奏がフランス人の演奏と違うのではないかと周りのフランス人に訊くと(お世辞もあるのかも知れないが)「いや、全く違いはないよ」という返事。しかしよく考えてみると、大抵のフランス人はいわば「しろうとさん」であって、音楽の微妙な機微などには全く無関係に普通に生きているのであった。そのような人に「違い」が解るわけもない。また、ではプロフェッショナル(先生とか)に訊いてみるとそれはひとそれぞれの違いに過ぎないということになる。最近、フランスのフルートの先生だかなんだかが「東洋人は機械的だ」みたいなことを言って物議を醸したが、これは例外(物議を醸すこと自体これが「普通」でないことを表している)。

尺八の志村先生も参加していて、ペルシア音楽の五線化の話のコンテクストの中で、邦楽も五線化するとつまらなくなる、という話をしておられたが、五線の本家本元の西洋音楽においても、実際に聴くと素晴らしい音楽が五線になってしまうととてもみすぼらしくなってしまうのはよくあることだ。どうしても五線楽譜は正確な音高以外はかなり切り捨てている要素が多いと思う。

2021年8月20日金曜日

近代・現代フランス音楽入門

 磯田健一郎『近代・現代フランス音楽入門』(音楽之友社[オン・ブックス]、1991年)を学校の往復に読んだ。スコラ・カントルム、ミュジック・コンクレート、スペクトラル、ストカスティックなどに関する記述がすっぽり抜けているのは「聴き易さ」をウリにしたいからか。しかし全情報の出所がない上に、間違いや表記不統一など満載である。これではますますフランス音楽は「軽く」見られるだろうな、と思った。