2010年7月5日月曜日

Fugenpassion

シューマンが精神的危機に陥るたびに、「Fugenpassionフーガ的情熱」でそれを切り抜けた、というのは興味深い。フーガとは優れてバロック的なジャンル(かつテクニック)である。バロックとクラシックとの様式の差異と絡めて考察すること。(ローゼン)

ソウル国際学会

夏の国際比較文学会ソウル大会の発表のための原稿 "Le mouvement folkloriste dans la musique française" を執筆中。これは昨年初めに日本の比較文学会で日本語で発表したものなので、それをフランス語に直しているのである。

2010年7月2日金曜日

そのとき

そのとき、大里さんはこんなことを言っていた。「柴田南雄は今の近藤譲のような役割を担っていた」と。すなわち作曲家でもあり、しっかりした音楽学的知識に裏打ちされた啓蒙家でもある、と。

2010年7月1日木曜日

柴田南雄

もう一人の柴田南雄だが、こちらの方は何と当時のぼくは不勉強で余り知らなかった。これもまた大里さんから教わったのである!柴田の「音楽史」の素晴らしさを!大里さんは、書き込みや線曵きで真っ黒になった柴田音楽史を三冊(四冊?)つねに参照していた。岡田は『印象派以後』がよい、と言うが、ぼくに言わせればむしろ柴田音楽史は中世・ルネサンスが圧巻である。今でも、ぼくは授業の準備のためにお世話になっているのである。

吉田秀和

岡田が柴田『マーラー』解説に、吉田秀和と柴田南雄が「アイドル」だった、と書いているが、彼はぼくと同じ歳のはずなのに全く違った意識を持っているのに驚いた。ぼくは高校の頃に友人で詩人の柴田君(奇しくも同名だが)の影響で、萩原朔太郎や中原中也や富永太郎といったものを耽読していたのだが、そんなレパートリーの中に幸か不幸か小林秀雄も混ざっていたのだった。そして、吉田の評論を読むと、出来の悪い小林の模倣という感が否めなかったのだった。「走る哀しみ」のモーツァルトの方が、シューマンのピアノ協奏曲を聴いて日比谷公園で「手の中の石を握りしめる」よりも、まだポエティックである。でも、吉田秀和の悪口を言うとあらゆるところから袋だたきに会うので、日本はまだまだだな、と思う。

ピアニストの横山

学校の事務に『音楽之友』が置いてあったので、ぱらぱら見ていたら、横山幸雄の記事が出ていた。ショパン全曲を一日で(?)演奏したので、ギネスに登録されたという。これからのピアニスト(演奏家)は、普通に演奏していたのではダメで、このようにギネスに挑戦したり、某や某のように身体が何かしら不自由であったり、ということが必要だという意見を聞いたことがあるのを思い出した(横山という人は、確か以前ソムリエか何かの資格をとって、ソムリエ・ピアニストとして話題になっていた気がする)。しかし、これは誰も知らないから言うが、大里さんがパリ大学都市にいたとき、日本館にはこの横山がいて、演奏会をしたことがあった。大里さんは、機材の設定などが完璧に(!!)出来るので、日本館の出し物の時には必ず手伝っていた。横山の時もそうで、しかし余りにその文句が多いので、あの大里さんが「全く何様のつもりだ」と言って怒っていたのだった。というような、色々のことを勘案するに、つまりは彼は「音楽」とは何の関係もないということらしい。Le pauvre !

しかし考えてみると

しかし考えてみると、中学時代に(当時は日本語しか読めなかったので)日本語でショパンについて書かれたものを片っ端から読んだが、どれも自分の熱意に見合うようなものはなかった。音楽「について」書かれたものは、その音楽の高みにまで至らないから?あるいは、日本語が音楽を語るのに適していないのか?