2011年7月2日土曜日

堀田正信

堀田正信について佐倉から飯田へ移った家臣の名前がわかればよいのだが、と思っていろいろとネットで探してみると、以下のような記述が目に留まる。以下引用。
「正信は城の近くの守谷というところに蟄居したと言われているが、そこは脇坂氏時代の飯田城の絵図に見える「上野介様御座所」であると思はれている。
ここでどのような生活をしていたのかは記録もなく良くわからない。市の中心地の江戸町にある正永寺には正信の子の墓と言われる2基の五輪塔があると云われるが、飯田での正信は4・5人の子供を為したらしく、また数人の家臣が随行していたと言われるからそれなりの生活が為されていたのであろう。」
筆者は恐らく相当な年齢の人物であろう(「思はれている」)。かなりの博識である。しかし、「子供を為す」は「成す」(あるいは生す)の間違いだね。ともあれ、こうして堀田正信に「数人の家臣」が随いていたらしい証言が出てきた。
PS:今少々気になって広辞苑を調べたら、「なす」は「生・成・為」のどれも同じように書いてあった。そうか?

椎名家

猿丸家のことを調べていて、椎名家はどうなのだろうか、と思った。父親から聞いているのは、もともとは千葉の方の下級武士の家系であり、佐倉宗吾の乱(1653)で、仕えていた殿様である堀田氏が改易となって、飯田に移った時に一緒に随いていったのだという話であった。しかし、ウィキなどで調べてみると、確かに佐倉宗吾の事件後、さまざまな奇行によって(磔刑に処せられた佐倉宗吾のたたりという)、堀田正信(1631〜1680)は飯田に蟄居を命じられるが、それは改易のためではなく、飯田藩主であった弟の脇坂安政(1633〜1694)のところに「お預かり」になったのだった。そのような殿様に随いていったということがあるだろうか。謎である。
ところでこうしていろいろ調べていたら、その後その弟の脇坂安政は1672年に播磨龍野藩に転封になっている。そして龍野の発展におおいに寄与したらしい(特産醤油とか)。ぼくが今住んでいるところからそれほど遠くないのは、少々因縁を感じるね。

猿丸家の墓

芦屋川駅のそばの橋から開森橋方面をのぞむ。

川の中はぎっしりと草で覆われている。左端の方に川が流れているが、ここからは見えない。
東の方に下りて行くと、バス通りと阪急線が交差する辺りに墓地がある。前から気になっていたが、入り口のところを見ると「猿丸家の墓」、「摂津名所図絵うんぬん」の石碑に気が付いた。

これはもしかしたら百人一首の猿丸大夫の墓なのか?ということで、中を覗いてみると、何と「猿丸家の墓」という名の墓石だらけである。
あとで調べてみたところによると、猿丸家というのは江戸時代以来の芦屋近辺の名望家であるらしい(第4代芦屋市長など)。それが、自分の先祖として百人一首の猿丸大夫も同時に祀っているようだ。中に猿丸大夫の墓とされるものも存在すると。しかし、一般人は中には入れないので、こうやって外から覗いた限りでそれは確認できなかった。

トマトの実3

ベランダのトマトが色づいてきました!

2011年7月1日金曜日

エックハルト

トマス・ア・ケンピスを読んでいて、「キリストにならって」いろいろと苦難に耐え、身をつつましく維持しなければならない、その方が神によって良しとされるからだ、という論理がちょっと気になった。こういう考えに対して、エックハルトははっきりと「それは商人である」と言い切って、否定している。自分の苦難と神から与えられる幸せを「取り引き」しているのだ、と。しかし、トマスの方が100年くらい後の時代の人なのだが……。エックハルトは死後すぐに「異端」として断罪された、というが、こうして彼の影響は無くなってしまったのだろう。残念だ。絶対、トマスよりエックハルトの方が正しいと思う。ニーチェはエックハルトを知っていたのだろうか?

雨2

雨期のラーガというのがある。ラーガ・ガイド(Joep Bor, The Raga Guide, A survey of 74 hindustani Ragas, Nimbus, 1999)を買ったので探してみよう。

久しぶりの雨。ペソアには雨を歌った印象的な詩が多い。リスボンは雨が多いのだろうか?大西洋岸気候?そういえばシェルブールの雨傘というのもあったな。