27日の神戸新聞読書欄に拙著『デオダ・ド・セヴラック』(アルテス・パブリッシング)の書評が掲載されました。
なんと海老坂武先生の筆になるものです。
2011年11月30日水曜日
2011年11月29日火曜日
「クラシック音楽」はいつ……
岡田暁生『「クラシック音楽」はいつ終わったのか?」(人文書院)読了。いつも思うのだが、日本語の「クラシック音楽」に対応するフランス語はない。La musique classique と言うと、日本語の「古典派音楽」のことになるだろう。苦し紛れに、場合場合で訳し分ける。例えば、la musique occidentale traditionnelle (西欧伝統音楽)とか、la musique sérieuse européenne (ヨーロッパのシリアスな音楽)とか、la musique savante continentale(大陸の学術的音楽)等々。他にも、機能和声法に基づいた18、9世紀の西洋音楽とか。その辺の曖昧さがクリアされていませんね。またここで論じられているのはドイツのことだけだね。ここにフランスや、イギリスや、イタリアや、アメリカなど(中央・東ヨーロッパ諸国も)の事情を加味すると、もっと論に深みが出るだろう。音楽的ナショナリズムの広汎な広がりを考慮すべきだと思う。
Funérailles
神戸バプテスト教会にて、一昨日夜が前夜式、昨日が告別式。A l'Eglise baptiste de Kôbe, la veillée s'est tenue avant-hier soir, les funérailles hier.
2011年11月26日土曜日
岳父
岳父逝去、本日未明1時05分。約四半世紀の身体不随の後、その固い殻を破って自由になった。また同時にモンペリエの友人、ジェフ逝去。哀しみは限りない。Mon beau-père est décédé hier nuit. Aussi Jeff, ami montpelliérain. Tristesses profondes.
2011年11月25日金曜日
20世紀音楽
宮下誠『20世紀音楽 − クラシックの運命』(光文社新書)読了。なくもがな、の感深し。二つだけ学んだこと、一つはカンディンスキーがスクリャービンを好きだったということ、もう一つはカール・アマデウス・ハルトマンが「忘れられたシンフォニスト」だということ。後者については、何年か前の学会で出ていた売店で、ハルトマンのCDを「間違って」買ってしまったことがあったのだった。「グルジェフ/ハルトマン」のハルトマンと間違ったのだ。カール・アマデウスなので「しまった」と思ったのでした。こんな人知らない、と。その他は、もちろん宮下という人は美術が専門のようなので、専門外の人間がこれだけ書けたということに感心すべきなのか、どうなのか。細かい間違いや思い込みがいっぱいあるし。一番気になったのは「中央ヨーロッパ」の呼び方でフランスやドイツを指すこと。違うよね。だって「西欧」というではありませんか?「ドゥビュッシー」とか「アルプレヒト」とか、やっぱり変だ。(これが「本当の」発音に近い、という主張なんでしょうな。カタカナにした時点でもうそんな議論ほとんど意味ないのに。)だいたい、「聴きやすい」20世紀音楽を紹介する、というスタンスも気になり出したら、気になるね。「聴きやすい」ってなんだ?彼が「聴きやすい」というレーガーなんか、とても5分と耐えられませんが。こんな本さえ出版されるのは、日本の出版事情が、なんやかんや言っても、諸外国に比べてまだましということなんでしょうね。
2011年11月24日木曜日
Hispanic Traditions in Twentieth-Century Catalan Music
Richard Paine, Hispanic Traditions in Twentieth-Century Catalan Music : with Particular Reference to Gerhard, Mompou, and Montsalvatge, Garland Publishing, N.Y. & London, 1989, の前半のスペイン民俗音楽の部分とモンポウを扱った部分、少しトルドラとモンサルバーチェの部分を読んだ。ゲラルドについての部分が後半非常に多いがよく知らないので、パス。しかし、これほど明快なスペイン民俗音楽、特にカタルーニャ音楽の説明を読んだことがない。そして、これによってカタルーニャ音楽とモンポウの音楽の間の密接な関係がようやく納得がいった。これはすごい!名著!なのだが、絶版なんだよねえ……。(ぼくは大学図書館の本を読みました。)
パリ・コミューン
H・ルフェーヴル『パリ・コミューン』(河野健二・柴田朝子・西田長夫訳、岩波文庫)読了。パリ・コミューンがその原動力の一つに「地方主義」、「地域主義」をもっていたことを初めて知った。そしてまた同時に地方に(マルセイユ、トゥールーズ、リヨン、サン=テティエンヌ、ル・クルーゾー、ナルボンヌ)コミューンがあったことも。ドビュッシーの父親はコミューンに参加していたので、地方の問題を身近に感じていたかもしれない。そこからセヴラックへの共感への遠因になったと言えなくもないか。
2011年11月23日水曜日
中古レコード・CD
せっかく休日出勤しているのだから(?)と、帰りに北新地で途中下車して、中古レコード・CDを漁る。収穫は:
Jean Français, Concerto for Piano and Orchestra etc.
Gabriel Pierné, Images etc.
Charles Gounod, Mireille (全曲!).
Guillaume Lekeu, Trio in C Minor.
以上がLP。半額セール中でルクーなどは500円ですぞ!そしてCDが:
ミヨー「管楽器とピアノのための室内楽」。
モーツァルトの交響曲(第30、31「パリ」、32、35「ハフナー」、36「リンツ」、38「プラハ」、39、40、41番)でした。CDの方は授業用です。
Jean Français, Concerto for Piano and Orchestra etc.
Gabriel Pierné, Images etc.
Charles Gounod, Mireille (全曲!).
Guillaume Lekeu, Trio in C Minor.
以上がLP。半額セール中でルクーなどは500円ですぞ!そしてCDが:
ミヨー「管楽器とピアノのための室内楽」。
モーツァルトの交響曲(第30、31「パリ」、32、35「ハフナー」、36「リンツ」、38「プラハ」、39、40、41番)でした。CDの方は授業用です。
2011年11月21日月曜日
押韻
またまた『鶉衣』に押韻詩の例が。
木曾路に仮の旅とて別れしが 武蔵野に長きうらみとは成りぬる[留]
呼べばこたふ松の風 消てもろし水の漚(あわ)
わすれめや 茶に語し月雪の夜
おもはずよ 菊に悲しむ露霜の秋
庵は鼠の巣にあれて 蝙蝠群て遊
垣は犬の道あけて 蟋蟀啼て愁
昔の文なほ残 老の涙まづ流
よしかけ橋の雲にかゝらば 招くに魂もかへらんや不
「驢鳴の挽歌」
木曾路に仮の旅とて別れしが 武蔵野に長きうらみとは成りぬる[留]
呼べばこたふ松の風 消てもろし水の漚(あわ)
わすれめや 茶に語し月雪の夜
おもはずよ 菊に悲しむ露霜の秋
庵は鼠の巣にあれて 蝙蝠群て遊
垣は犬の道あけて 蟋蟀啼て愁
昔の文なほ残 老の涙まづ流
よしかけ橋の雲にかゝらば 招くに魂もかへらんや不
「驢鳴の挽歌」
Ici c'est la tranquillité,
Ici c'est la tranquillité,
Bien loin du monde et de la vie,
Comblé de n'avoir nul passé,
Le futur même est oublié.
Ici c'est la tranquillité.
Bien loin du monde et de la vie,
Comblé de n'avoir nul passé,
Le futur même est oublié.
Ici c'est la tranquillité.
Aquí se está sosegado,
Aquí se está sosegado,
Lejos del mundo y de la vida,
Lleno de no haber pasado,
Hasta el futuro se olvida.
Aquí se está sosegado.
Lejos del mundo y de la vida,
Lleno de no haber pasado,
Hasta el futuro se olvida.
Aquí se está sosegado.
Aqui está-se sossegado,
Aqui está-se sossegado,
Longe do mundo e da vida.
Cheio de não ter passado,
Até o futuro se olvida,
Aqui está-se sossegado.
Longe do mundo e da vida.
Cheio de não ter passado,
Até o futuro se olvida,
Aqui está-se sossegado.
2011年11月19日土曜日
中原中也記念館
そして松田屋の目の前には、中原中也記念館が。中也の実家の跡地に建てられたとか。A côté, le Musée Chûya Nakahara.
その隣りは弟中原思郎氏の住居らしい。
いろいろ面白い展示あり。しかし中也と河上徹太郎とか、あるいは西洋音楽との関わり(「スルヤ」、諸井三郎)は興味あるテーマである。そう言えば、吉田秀和『主題と変奏』にも彼が中也とシューマンのコンチェルトを聴く話が出て来る。これこそが昭和初期の日本における西洋音楽の状況の中での本当に面白いテーマと言える。
その隣りは弟中原思郎氏の住居らしい。
いろいろ面白い展示あり。しかし中也と河上徹太郎とか、あるいは西洋音楽との関わり(「スルヤ」、諸井三郎)は興味あるテーマである。そう言えば、吉田秀和『主題と変奏』にも彼が中也とシューマンのコンチェルトを聴く話が出て来る。これこそが昭和初期の日本における西洋音楽の状況の中での本当に面白いテーマと言える。
湯田温泉
Station thermale Yuda-onsen à Yamaguchi.
老舗松田屋ホテルに宿泊。A l'hôtel Matsuda-ya.
老舗松田屋ホテルに宿泊。A l'hôtel Matsuda-ya.
江戸時代に開業ということで、幕末の薩長連合などの密議が行われたとか。坂本龍馬や高杉晋作などが泊まったらしい。日本庭園が見事でした。L'hôtel, ouvert avant la restauration de Meiji, est sorte de site historique, où les personnages importants de l'époque, comme Ryôma Sakamoto et Shinsaku Takasugi, se logeaient souvent. Son jardin japonais est splendide.
2011年11月17日木曜日
関西
東京の人間が関西に生活して感じるエグゾティスム。これと似た感覚は日本人としてパリに住んでいた時にも感じていた。デラシネ?先日海老坂武先生にジュール・ヴァレスの小説には「根こぎにされた人々」という定訳があると指摘された。もちろんぼくはそれを知ったうえで、「失郷者」の語を借りたわけだが、確かにその辺のいきさつを察させるように書くべきだったと思う。(もう一つの彼の指摘は「ブルク・アン・ブレス」の発音。)
2011年11月16日水曜日
北海道新聞
北海道新聞読書欄「著者コーナー」の取材。12月初めに出るとのこと。記者の関さんという方は自分もチェロを弾き、室蘭出身(!)の小林義武先生や東大オケのトップだった鮎川という人とも知り合い。これは今村君に訊かずばなるまい。その後は、山のようにある教育実習生の教育実習簿を見て、これからは教授会です、いやはや……。(おお、紀要投稿論文査読結果を書くのを忘れた!)
コロンブスの犬
管啓次郎『コロンブスの犬』(河出文庫)読了。22年前に書かれたなんて信じられない。ほとんど昨日に書かれたように新鮮。このような彼の超かっこいいスタイルにぼくたちはいかれてしまったのだった。今ふと思い返して、『セヴラック』にその影響があるのかもしれないと思った。(ああ、恥ずかしい。)しかしぼくは決して管さんのような旅人にはなれない。なぜなら一人でレストランに入ることもできないほどだから。いや、サン=フェリックスでセヴラックの子孫の人に会う、というような「仕事」がある場合は別ですよ。それともう一つ。外国語をならう時には人はみな中学生になる、というのに同感。今ぼくはスペイン語を習っているが、実に楽しい。
打楽器アンサンブルコンサート
同志社女子大学音楽学科打楽器専攻生による「第22回打楽器アンサンブルコンサート」(京都府民ホール・アルティ)に行って来た。曲はPowell, the Gilded Cage、西原大樹《ジムナスティック・ゲーム》、Reich, Drumming、Cage, Third Construction、Zimmer, Fragile、武満徹《四季》。一曲目には間に合わなかった。西原作品は曲の作りが全く伝統的・和声的(リズムも)なので、音程が曖昧な打楽器で演奏する意味がよくわからない。ライヒとケージはみなよく頑張った。ドラミングの第二部だけだったけれども、よく練習してあって(もう少しずれが聞き取れればよかったが)、ライヒ本人に見せて(聴かせて)やりたいくらい。ツィンマーはきれいな曲。低音の響きがよかった。武満は視覚だね、面白い。特に大阪万国博で初演をした山口恭範先生のコメントがあったので余計興味が増した。アンコールの《ボレロ》は圧巻でした。やはり打楽器科のレヴェルはなかなかですな。
2011年11月14日月曜日
スコラ2
録画しておいた2週間前のNHK-Eテレ『スコラ』を見た。印象派の二回目。《牧神の午後への前奏曲》と《海》の中の増四度に注目するところなど、ぼくも授業で全く同じことをやっていて、目の付けどころが一緒だなと思いました。「水のテーマ系」というのも。しかし、ピアノ二台版の《海》は知りませんでした。いいですねえ。ぼくは授業ではピアノ一台版の楽譜を使います。表紙が初版と同じだし、やはり構造がよくわかる。実際の水を使ったワークショップでは、アフリカのウォータードラムとかマルセイユの電子音楽作曲家ルドルフィのプール内での作品なども参考として挙げられるのでは、と。
2011年11月13日日曜日
ゆみさんのシューマン
昨日は、大阪南森町のモーツァルト・サロンで奈良ゆみさんのフォーレ《イヴの歌》とシューマン《エリザベート・クルマンの歌》、《メアリー・スチュアートの歌》他を聴いた。伴奏は谷口敦子さん。どちらも作曲家晩年の実に「渋い」作品である。前半フォーレ、後半シューマンだったのだが、やはりこの二人の作曲家を同時に歌うのは難しい。特にピアノは全く違うので、極端なことを言えば、それぞれの作曲家に違うピアニスト(いやピアノそのものさえ)を使った方がいいと思われたくらいだった。しかしゆみさんのフォーレはいつもどおり、としても、なかなかそのシューマンのドイツ語が子音のはっきりした動きで魅力を出していた。
2011年11月12日土曜日
2011年11月10日木曜日
A Study of Catalan Composer Federico Mompou's Música Callada
Ann Zalkind, A Study of Catalan Composer Federico Mompou's (1893-1987) Música Callada, The Edwin Mellen Press, 2002 を読む。前半はモンポウに影響を与えた作曲家として、Scarlatti、Soler、Schumann、Chopin、Liszt、Albeniz、Granados、Falla、Satie、Debussy、Les Six が挙げられ、それぞれのある作品とモンポウのある作品の似ている点が論じられる。しかしこれが単なる判じ物というか当て物というか、何となく似ている程度なので、おやおや感。その上なぜ似ているかの論が全くない。ブラームスも言っていましたよね。「単に似ているだけだったら、驢馬だってわかる」って。そして後半は Música Callada 各曲の分析めいた記述。これって楽譜が読めれば、それでおしまいじゃない?これでニューヨーク市立大学の博士号を取ったんだったら、大したことないね。参考文献もほとんど英語のものだけで済ませている。なんじゃこりゃ?
RSS Graffiti
見てみたらこんなアナウンスが。
Maintenance in progress!
We are performing some planned maintenance in RSSGraffiti!
The application will be offline for roughly half an hour!
During this period publishing on your Walls will also be paused.
Thanks for your patience. Come back in a while!
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2011年11月9日水曜日
毎日
毎日新聞の取材を受ける。セヴラックのこと(本とか吉田賞とか)その他について。しかしいつ出るのかはわからないと言う。うーむ……。そう言えば、明日に出る『週刊新潮』にちょこっと書いたものが載るはず。
2011年11月7日月曜日
11.11.11
今日の晩ご飯は神戸中華街、南京町のシュウマイ(ただし冷蔵もんではありますが)。ふと見ると、日付に「1」が見事に並んでいるではありませぬか。
それだけの話でございます。C'est tout, voilà.
2011年11月5日土曜日
元町ファミリア
今日は雨の中、元町のファミリアに娘たちの冬オーヴァーコートを買いに。おばあちゃんのおごりであります(感謝)。帰りには、すぐそばのにしむらコーヒーでお茶。子供たちはアイスクリーム。私は例の大きなシナモン付きカプチーノで(以前の写真再掲)。
2011年11月4日金曜日
貴志康一と音楽の近代
梶野絵奈他編『貴志康一と音楽の近代』(青弓社)読了。前のブログにも書いたが隔靴掻痒。これは何かと考えたのだが、多分筆者たち(これは論文集)がみんな貴志康一に「冷たい」からだろう。外側から客観的な基準となる物差しをもってきて、いろいろな点(ヴァイオリンとか作曲とか、随想とか歌曲とか映画とか、果ては「天才」性まで)について、彼を「身体測定」しているのだ。まあこの手つきも科学的「音楽学」的には必要なのかも知れないが、どうもこの特異な音楽家を描き出すのには足りないようだ。また、彼の作品についての分析が極端に少ないのも気になる所。作曲家であるなら、その作品に語らせて欲しい。要は貴志の何を描きたいのかというところだね。
金木犀再び
今朝何気なく見たらまたまた金木犀が咲き出しています。
驚きました。一度全体が咲いて、散った後なのに。ただ、その後姿が悪かったので(強風で何度か倒れた)ちょっと剪定をしたのでした。それが刺激となったか……?
隣りでは夏の間枯れたようになっていた菊がけなげに咲き出しました。
驚きました。一度全体が咲いて、散った後なのに。ただ、その後姿が悪かったので(強風で何度か倒れた)ちょっと剪定をしたのでした。それが刺激となったか……?
隣りでは夏の間枯れたようになっていた菊がけなげに咲き出しました。
2011年11月3日木曜日
貴志康一
書評を頼まれて『貴志康一と音楽の近代』を読んでいる。全体にそつなくまとまっているが、何だか隔靴掻痒感が残るのはなぜ?ゴチェフスキ論文は、日本近代音楽にメロディとハーモニーの齟齬があるので、この二要素の「同一化」(アイデンティファイ)ができていないのが、日本音楽の「自己同一性」(アイデンティティ)の問題点だ、となっている。本当か?そんな「簡単な」ことか?
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