2009年11月18日水曜日
2009年11月15日日曜日
マーラー
夢でマーラーに会った。長旅で背中を痛めたと言っていた。これから交響曲を初演すると言う。波止場のようなところで、どうも一緒にワルターもいたような気がする。彼はドイツ語だし、ぼくはフランス語なのだが、英語あたりで折り合いをつけたか。
2009年11月10日火曜日
ブーレーズ
ブーレーズで思い出したが、ぼくがブーレーズ論で卒論を書いた時、ケージと比較したりしたのだが(ベニテズの影響だ)、審査にあたった渡辺守章が、ケージとブーレーズの違いは英語と仏語の違いだろう、みたいなことを得意げに言っていた。当時のぼくは「うぶ」だったので反論できずじまいだったが、それって単なる「反映論」?芸術作品とはそんなに単純じゃない!
ランシエール
市田良彦さんのランシエール論(『新<音楽の哲学>』白水社)を読んだ。ランシエール美学と哲学(特に彼のマルクス主義 — アルチュセール観)との関係がよくわかり大変有益だった。しかし、いわゆるシリアス現代音楽の言説としてブーレーズやシュトックハウゼンの言うことをそのまま信用してしまっているのは、ちょっと……。そしてまた、「大衆音楽」と美学はそもそも関係がないのではないか、という素朴な疑問も。たぶんアドルノもその「ジャズ分析」で、美学者としてではなく、社会学者として振る舞っているのでは(それが成功しているかどうかはともかく)………。あるいは広い意味での「隠喩」?
2009年11月7日土曜日
パワーゲーム
世の中には、本当にパワーゲーム(権力争い)が好きな人間が多くて困る。つまりは自分の力を誇示したいということなのだろうが、そのために他人を利用するのはやめて欲しい。またその形も非常に陰微な形で、はっきりと権力を見せつけはしないという形で行われることも多い。だから一見するとそれがパワーゲームの一種だとはすぐには気づかないのだ。よく考えると「ああ、そういうことなのか」と合点がいく。しかし……、ただぼくは自由でいたいだけなのだ。まさに Fiche-moi la paix である。
2009年11月2日月曜日
ヘーゲル美学
ヘーゲルの美学体系において、芸術はその「精神化」と「主観化」の度合い(すなわち、絶対精神のあらわれの度合い)によって、その順位が決められる。音楽は最高位の詩についで二番目である。しかし、言語という足かせに捕われている詩の方が音楽よりも「精神性」において劣っているのではないか、とも考えられる。そのような抗議への答えがこれだ。
「しかし、<理念>が<概念>すなわち<普遍>に到達する必然性に基盤を置いた体系は、世界内に外化することによって主観性を超克する芸術に優位を与えざるを得ない。こうして、詩を選ぶという、非常にロマン主義的な選択が生まれる。ヘーゲルにとって、詩こそが祖国を持たないものであり、音楽ではなかった。」(Jimenez, p.193.)
でもその後でジムネーズはこう付け加えている。
「しかし、この詩のステータスは、それほど明確なものではない。彼がその点について、矛盾を提示してしまうほど、ためらっているのは非常に意味深い」。
またまた、要確認のことが増えた。
「しかし、<理念>が<概念>すなわち<普遍>に到達する必然性に基盤を置いた体系は、世界内に外化することによって主観性を超克する芸術に優位を与えざるを得ない。こうして、詩を選ぶという、非常にロマン主義的な選択が生まれる。ヘーゲルにとって、詩こそが祖国を持たないものであり、音楽ではなかった。」(Jimenez, p.193.)
でもその後でジムネーズはこう付け加えている。
「しかし、この詩のステータスは、それほど明確なものではない。彼がその点について、矛盾を提示してしまうほど、ためらっているのは非常に意味深い」。
またまた、要確認のことが増えた。
どこにも行かない
どこにも行かない道(chemins qui ne mènent nulle part)、というのはハイデッガーの論集の仏訳題名だが、人生とはまさにそれだ。いつまでも堂々巡りをしている。クロソフスキーのニーチェ論(cercle vicieux)も悪循環などより堂々巡りなのでは?といつも思う。
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