2012年6月1日金曜日
篠原眞ほか
昨日は「篠原眞の電子音楽上演会」、一昨日は同じ会場で「電子音楽作品の上演についての実践的考察 - 黛敏郎作品のマスタリングを例として」(京都芸術センター、川崎弘二企画)。能美亮士さんによるマスタリングの話は、電子音楽作品においても、背後にある「雰囲気」的音響が大切だというのが興味深かった。これってケージの言う「止めることのない大文字のMで始まる音楽」(不肖私めの言う「音楽的なもの」)ではないだろうか。そして、篠原眞の電子音楽。リュック・フェラーリに習ったというが、篠原氏(80過ぎて矍鑠!)の言では「それとわかる現実音を用いたのは私が最初」。でも Hétérozygote は、彼の Visions I より前ではないかな、と思ったり。そんな疑問、そしてフェラーリとの比較などは、帰りの電車の中で読んだ鈴木治行の論文(会場で配布された川崎編『篠原眞の電子音楽』所収)できちんと解明されていた。鈴木さんの触れてないことを付け加えると、フェラーリ作品のメッセージ性あるいは「やむにやまれぬ」性とでも言うか。篠原作品は、もっと静謐であり、ちょっと俳句とか連歌の、あるいは「数寄」というような言葉を思い出した。手法は徹底的に西洋的だが、結果が日本的?