2012年6月21日木曜日
木村敏『臨床哲学講義』
木村敏『臨床哲学講義』(創元社)読了。学校への行き帰りに。やはりゾーエーとしての生命、山括弧付きの〈生命〉、非人称の、誰のものでもない、あるいはみなのものであるいのちが存在する、というところ。これは、ぼくの言う「音楽的なもの」(グールドのバッハ、そしてそれを指摘した大里さん)、あるいはケージの言う「止めることのできない、大文字のMで始まる〈音楽〉」と同じものか。そして、能美さんの言う「背後にあるノイズ」なのか?木村敏も、そこにニーチェの「ディオニソス」との類似を語っている。ぼくは、能美さんに、ショーペンハウアー→ニーチェ→バタイユ→デュシャン→ケージ(そして→椎名 - グールドも介して)(そして能美さんの指摘によれば、テープ音楽の背後に流れるノイズ - これは面白い!)という流れを示唆したのだったが。結局のところ、生命と音楽は一緒か、という問題になるのか?ぼくとしては、肯定で答えたい気持ちに駆られるのだが……。