2010年12月30日木曜日
Actes du colloque
この夏のソウルでの国際比較文学会世界大会の Actes du colloque のための原稿を書く。1月が確か締め切りであったはず。『狂気の〜』上梓後しばらく(風邪やら何やらのため)ぼうっとしていたが、またまた少しずつ、「学問的」興味が動き出す。
釋迢空
富岡多恵子『釋迢空ノート』を読む。迢空の執心の強さに感嘆。自分に真面目な人だったと感じる。迢空詩の美しさもなつかしい。そしてまた、大阪をよく知らなければならないとも思う。そして、当麻寺も。高校の修学旅行で高野・柴田・某(おお名前を忘れてしまった!)と京都市内の宿から近鉄線に乗ってひたすら南下し、日暮れてその行を果たさなかったのを思い出す。今の勤め先は京田辺(新田辺)なのだが、時々その時のことを考え、ここを通ったはずだと思い、何の巡り合わせかここに自分はいるのだろうと思う。
2010年12月28日火曜日
フランス人の
フランス人のシューマン論。ブークールシュリエフのはスイユのシリーズ物の、いわば vulgarisation だから論外(つまり、きちんと書けている)としても、マルセル・ブリオンもミシェル・シュネデールも、学術書というよりは単なる読み物だね。何の意味があるのかと思う。フランスの知識人には、これは多分フランス高等教育の悪い面が出ていると思うが(何でも dissertation の)、何についても一応それなりに読めるものを書けてしまうという人が余りに多い。ジャック・アタリなんかその典型だ。何となく面白く読まされてしまうが、何の深みもなく、表面的で、読んだ後何も残らない。それとまた、関係あるのかないのかわからないが、フォーレがフランスのシューマンだ、みたいな先入観があるということもある。
2010年12月27日月曜日
読売新聞
ところで、昨日26日(日)の『読売新聞』紙上、片山杜秀さんが「今年の3冊」のうちの一冊として拙著『狂気の西洋音楽史』を挙げてくれたそうです。ありがたいことだ!そしてまた、他の一冊が大里さんの『マイナー音楽のために』であって、彼の著書と並んで評価されるのは誠に光栄である。そこには、80年代フランス思想の影響うんぬんということがあったらしいが、確かに!ぼくたちは二人とも、その思想圏のまっただ中にいたダニエル・シャルルの弟子なのである。
季節外れ
夜香木が咲いた。まったく季節外れで、以前から蕾はつけていたのだが、そのまま落ちてしまうものが多かったので、これは咲かないかなと話をしていたのだった。その話を聞きつけて、「なにを」と発奮して咲いたのだという意見もあったが(?)、これは恐らくここ二三日急に寒くなって暖房を点け続けて、室温がずっと暖かいまま保たれていたのが原因ではないかと思う。
しかし、残念なことにまたまた風邪を引いてしまって余りよく香りを感じないのであった。うむむ……。
2010年12月25日土曜日
クリスマスイブ礼拝
ゆうべはクリスマスイブ礼拝。子供たちの「寸劇」がなかなか可愛くてよかった。大勢の人々が集まり、ともかくもみなが元気でいるというのが大事であると思う。(というのも、小学校の同級生が突然にガンで亡くなったという話を聞いたからだが……。)
2010年12月23日木曜日
2010年12月22日水曜日
Réification de la musique
Réification なのか、あるいはもっとわかりやすく、chosification なのか。ドイツ語では何でしょうか。ちょっと調べたら、Versachlichung とか Verdinglichung というのだな。ということは、Musikversachlichung とか Musikverdinglichung とか、すごい言葉になるのかな。あるいは、Versachlichung von Musik とか?冠詞はいらないのかな。
音楽の物象化
「ぶっしょうか」というのはすぐには変換されないのですね。それほどまでに、まだ市民権を得ていない言葉なのでしょうか。さて、音楽の物象化です。本日、大学研究所からCDへの出版補助申請を却下するというお達し。つまり、書籍などの出版助成では、まずその書かれたモノはすでに存在し、それを書物というモノにするのに助成金を与えるのである。しかし、CDの場合は、録音作業までが助成金申請されている。これはおかしい、と。CDの場合でも、もう「出版」されるモノがすでにあって、それをCDというモノにするのだったら助成金を出してやってもいいだろうが、という論理です。だから、結論は「却下」。しかし、音楽をやっている人間に言わせれば、それは音楽をモノ扱いしている。もちろん、CD録音というのは言わば音楽をCDというモノにしているのではあるが、その内容までは「まだ」モノとしては扱っていない。それを研究所の人間はそれまでをもモノとしろ、と言っているのである。いやはや。これは、また以前に書いた、インタビューの中の「音楽は人生そのものである」ということとダブるのだが、人生だってモノではないでしょう?それと全く同じ論理で、音楽は(時間の、それも時間芸術なのだから)モノではありえない。
2010年12月21日火曜日
Alberto Caeiro
Alberto Caeiro は詩人でない詩人であり、「群れの番人」なのだけれども、群れの番などしていないのだ。あらゆる形而上学の否定である。プレイアード版の解説を読んでいたら、彼をジョン・ケージと比較していていて「先に言われた!」と思いました。(Caeiro は、Pessoa の hétéronyme の一人。これをどう訳すのかな。今辞書を見たら「異根同類語」という訳語があった。何のこっちゃ?異名同人?かな?いや、単なる異名人物?)
2010年12月19日日曜日
クリスマス礼拝
教会のクリスマス礼拝。聖歌隊の伴奏をつとめる。なかなか満員の教会堂であった。そのあとは愛餐会。ピアノソロを弾かされたが、用意しておいた楽譜を間違えて、急遽全然違うものを弾く。いやはや……。
2010年12月17日金曜日
2010年12月16日木曜日
寒さ
やっと本格的な寒さ。しかし、去年のヨーロッパの寒さの比ではない。飛行機が飛べないくらいだったからね。今年もヨーロッパには強い寒気が到来しているようだが。いずれにせよ、あれからもう一年たったかという感慨しきり。
2010年12月13日月曜日
世界観
「世界観」という言葉の誤用にいらだつ今日この頃(いやもっと前からですけどね)(苦笑)。La vision du monde あるいは Weltanschauung などとは何の関係もないんだもの。ぼくがこの語を知ったのは、Alain Rocher 先生が Lucien Goldman の本を教材に取り上げたからだった。書名は Dieu caché 、翻訳もあるようだ(『隠された神』)。
2010年12月12日日曜日
比嘉康雄
比嘉康雄の写真についての番組。沖縄の祖霊神信仰。姜尚中氏がよいことを言っていた。沖縄はローカルだと思われているが、その底には(記憶の底)全ての人類に共通のものがある。民族とかローカルなものは、人類共通の普遍的なものの一片の現れに過ぎない。音楽もそうだ。先日、大学案内のゼミ紹介のインタビューを受けて、音楽とは我々の人生そのものだ、みたいなことを言ったら、インタビューをしていた女の人は首を傾げていたが……。ダニエル・シャルルも全く同意見だったのを思い出す。音楽はそれぞれに民族的だったり、ローカルだったりするが、実はその「記憶の底」では普遍的だ。逆も言える。その底では共通のものが、その現れではかくも多種多様でお互いに理解不能にまで至る。ぼくがプラトニズムに魅かれるのは、そこにこのような音楽のアナロジーを見るからだろう。そして、そのことはヘーゲルの「精神」もショーペンハウアーの「意志」も同じである。ぼくの『音楽的時間の変容』で言及した "Le musical" もまさしくそれだ。そして、この考えは大里俊晴さんの考えから影響を受けている。(彼のグールド論。)
2010年12月10日金曜日
共感覚
木村敏氏は著書の中で LSD 服用の際の「共感覚 synesthésie」の話を書いていたが、そのような薬物によらないでも日常的にそのような感覚を持っていることにも触れていた。有名なのは、音と色彩が結びついたメシアンの例だろう。しかし、二つ以上の複数の感覚が結びついていることもあり得るだろう。そしてそこに「記憶」が結びついていることもありそうだ。すると「記憶」ももう一つの「感覚」なのだろうか。しかし、翻って考えてみるに、我々の日常の経験がすでに、常に全ての感覚を動員して構成されているということがある。一つの感覚だけをわざわざ取り出す方が特殊である。それらを結び付けるのが「記憶」なのか?プルーストの例をよく考えてみよう。
そんなことを考えたのも、ふと昔にフランス語の単語を覚えていた時の感覚を思い出したからだ。その時の視覚・触覚などなど、総合的な経験。またこれは、プルースト的な「無意思的記憶」ではない。意思の力で呼び起こすことが可能だ。
また、それと同時に、今ここにいてまるで「異邦人」であるかのような感覚を呼び起こすこともできる。これは心理的に過酷な状況においては、それをやり過ごすに適した方法である。私は今ここで展開されている現実には直接には「関係」がない。
そんなことを考えたのも、ふと昔にフランス語の単語を覚えていた時の感覚を思い出したからだ。その時の視覚・触覚などなど、総合的な経験。またこれは、プルースト的な「無意思的記憶」ではない。意思の力で呼び起こすことが可能だ。
また、それと同時に、今ここにいてまるで「異邦人」であるかのような感覚を呼び起こすこともできる。これは心理的に過酷な状況においては、それをやり過ごすに適した方法である。私は今ここで展開されている現実には直接には「関係」がない。
サン=サーンス
ミヒャエル・シュテーゲマン『サン=サーンス』(西原稔訳、音楽之友社)の中に、やはりサン=サーンスのユダヤ出自の問題があったことが語られている。生前から、反対派によってそのようなデマが流されていたと言う。著者自身はそれを否定しているようだが。どうなのか。
2010年12月9日木曜日
グリム兄弟
橋本孝『グリム兄弟とその時代』読了。「その時代」の方にもっと詳しい分析などがあると面白かっただろう。そしてなんとまあ誤字脱字の多いこと。これは、著者の責任か(日本語もおかしいところがある)、編集者の責任か、両方か。出版社の名前が「パロル舎」だけあって、話し言葉がメインですか(苦笑)。
2010年12月8日水曜日
中沢新一氏
中沢新一氏からお礼メール。彼には『狂気の西洋音楽史』と同時に『思想』の抜き刷りも送っていた。「あとがき」のぼくの彼への「謝辞」に恐縮しておられた。大変にこの著作を評価していただいて、こちらこそ恐縮である。
2010年12月7日火曜日
ギヨー先生から
Guillot 先生から、彼のセヴラックに関する著書が出版されたという手紙(アルマッタン社の広告のコピー)が来た。それには付箋で「En attendant votre livre. Bien à vous. G」とあった。
eRikm
寒梅館でエリックMを聴いた=見た。彼の短編映画集である。単なるポップス系のDJのようなもの(ターンテーブル演奏家?)かと思っていたら、大間違い。第一級の映像作家であり、musique électro-acoustique 作曲家である。まず、何の音楽的専門教育も受けていないということに驚き、そのコンセプトの興味深さ(「記憶」を重層化させる)にもう一度驚く。
2010年12月6日月曜日
周平さん
細川周平さんから手紙(!)。『狂気の西洋音楽史』と『思想』抜き刷りを送った礼状である。いろいろと書いてくれて、ありがたいことだ。しかし、極度の筆無精のぼく(妻にいつもあきれられている ― 彼女はものすごく筆まめなのである)にとっては、「手紙を書くということ」に感心するし、そのように「手紙を受け取ったこと」に大感激である。
〈悪しき〉文化
足立信彦『〈悪しき〉文化について』読了。異文化理解ということについて、非常に明快に問題点を整理してくれている。非常に勉強になった。「文化相対主義」の危険、「普遍主義」の傲慢。その間でどのような解決策を見出したらよいのか。ヘルダーがそのような思想の持ち主であったとは知らなかった。
また二つばかり、それに関連して。
まず第一は、ぼくが大学生の頃に或る演奏会でピアノを弾いた時、その曲は確かフォーレの作品であったと思うが、それを Estrellita Wasserman が聴きに来てくれていた。演奏会後に彼女(フランス人)にぼく(日本人)の演奏(フランスの作品の)がどうだったのかと尋ねた。当時のぼくはナイーブだったので、「フランスの作品を日本風に演奏している」などというような感想を期待したのだったが、彼女の答えは「素晴らしかった」というだけであった。その時に感じた失望感を未だに覚えている。またその時に考えたのは、彼女は音楽の専門家ではないので、違いがよくわからないのではないか、ということだった。つまり、「音楽」という「言語」について考えたわけだ。
もう一つは、パリの東洋語学校 Langues'O (INALCO)で教えていた頃、当時の日本語セクションの長であった François Macé と話していて、ぼくが木村敏のこと(「もの」と「こと」の話など)を誉めていたら、彼が言った言葉。「しかし、日本語にはこれこれの表現があり、西洋語にはないから、日本人はかくかくしかじかである、という言い方は多少問題がある。〜人というものを、それほど簡単に前提にする議論は科学的ではない。」(表現は違ったかもしれない。)なるほどと思ったのだった(それ以外で彼に感心することがそれほどなかっただけに、これは印象に残っている)。
また二つばかり、それに関連して。
まず第一は、ぼくが大学生の頃に或る演奏会でピアノを弾いた時、その曲は確かフォーレの作品であったと思うが、それを Estrellita Wasserman が聴きに来てくれていた。演奏会後に彼女(フランス人)にぼく(日本人)の演奏(フランスの作品の)がどうだったのかと尋ねた。当時のぼくはナイーブだったので、「フランスの作品を日本風に演奏している」などというような感想を期待したのだったが、彼女の答えは「素晴らしかった」というだけであった。その時に感じた失望感を未だに覚えている。またその時に考えたのは、彼女は音楽の専門家ではないので、違いがよくわからないのではないか、ということだった。つまり、「音楽」という「言語」について考えたわけだ。
もう一つは、パリの東洋語学校 Langues'O (INALCO)で教えていた頃、当時の日本語セクションの長であった François Macé と話していて、ぼくが木村敏のこと(「もの」と「こと」の話など)を誉めていたら、彼が言った言葉。「しかし、日本語にはこれこれの表現があり、西洋語にはないから、日本人はかくかくしかじかである、という言い方は多少問題がある。〜人というものを、それほど簡単に前提にする議論は科学的ではない。」(表現は違ったかもしれない。)なるほどと思ったのだった(それ以外で彼に感心することがそれほどなかっただけに、これは印象に残っている)。
Ils sont fous, ces Chinois !
Briançon のスキー場で我々日本人グループが、perches という、それにスキーを履いたまま跨がって引っ張られながらゲレンデを登って行く装置に慣れておらず(これは日本には存在しない ー と思う)、片端から転び、引きずられ、何回も繰り返したのを見ていたフランス人の係員の叫んだ一言である。「こいつら気が違っている、この中国人たちは!」いやいや、私たちは日本人ですよ、などと抗弁する余裕さえないのであった。Non, non, vous avez tord, nous sommes Ja-po-nais !
そう、なぜこれを思い出したのかと言えば、『〈悪しき〉文化について』を読んでいるからである。他者を理解するとはどういうことか。我々はフランス人たちのアジア人蔑視を感じ、反発する。しかし、それと同時に、「我々は中国人などではない」と思う気持ちの中には、日本人の中国人蔑視が混入している。
そう、なぜこれを思い出したのかと言えば、『〈悪しき〉文化について』を読んでいるからである。他者を理解するとはどういうことか。我々はフランス人たちのアジア人蔑視を感じ、反発する。しかし、それと同時に、「我々は中国人などではない」と思う気持ちの中には、日本人の中国人蔑視が混入している。
2010年12月5日日曜日
講演会
昨日は京都で講演会。「大砲と花束」と題してショパンについて。三木のゴルフ場のオーナー、立松さんという方とお知り合いに。その後、岡本君と村上君と新大阪で飲む。出版記念および講演お疲れさま会である。
2010年12月3日金曜日
哲学への権利
立命館の亀井君から、映画『哲学への権利』上映に伴う討論会の参加者としての依頼が来た。デリダの Collège international de philosophie についてのドキュメンタリー映画である。日本人の監督が撮った映画であるという。ぼくは直接には余りコレージュと関係はなかったが(間接的に二回、フィリップ・ニスを介して、またエリック・マルティを介して)、そんなのでよければ(そしてまた少なくとも何年間かのフランス大学教員としての経験と)ということで、お引き受けした。
2010年12月2日木曜日
打つ身体
シューマンというと必ずバルトの「打つ身体」の語を持ち出す者がいるが、大体間違っている。例えば、それは弦楽器のトレモロではない。これを理解するにはもう一つのバルトの言葉「シューマンの最上の弾き手は「私」だ」を理解しなければならない。
2010年12月1日水曜日
シュタイナー
小杉英了『シュタイナー入門』読了。神智学と人智学などの関係など、よくわかった。心霊術やオカルトとの関係も。しかし、「西の結社」の「陰謀」というのは何なのだろう?そして、どうしてこれほどシュタイナーの「人種差別」のことにこだわるのだろう?よけいに気になりますね。シュレーバー協会とは何か関連があるのだろうか?そして、その他の様々なスピリチュアリスムとの関係は?勤め先の大学の側に、シュタイナー学校があるのだが、どうしてこれほどシュタイナー教育というのが日本で広まっているのだろうか?単に「思想が素晴らしいから」では答えにならないだろう。
2010年11月30日火曜日
助成金
セヴラックCDの制作に大学の助成金を貰おうという計画。今日が申請の締め切りだったが、コジマ録音の杉村さんには申請書作成でぎりぎりまでお世話になった。研究所の事務の人たちも何回か研究室にまで来てくれて、なにしろ「出版助成」にCD出版の申請というのは前代未聞の出来事なので、大学側もどう対処すべきか悩んでいる感じである。どうしても、録音の費用がほとんどの割合を占めるのが、腑に落ちないというところらしい。まあ、言ってみれば、普通には本を作るのにかかる費用を補助するはずが、例えば、ワープロ代やら、「ホテル缶詰」代やら、執筆用机の借り賃などが含まれる(含まれるどころか、それがメイン!)、というイメージなのだ。
2010年11月29日月曜日
2010年11月28日日曜日
ヴァーグナー
吉田寛『ヴァーグナーの「ドイツ」』読了。ヴァーグナーの伝記と当時の「ドイツ」事情が一挙にわかってしまう、よく出来た書物である。各章の分量がアンバランスだったり、「超政治」というのがよくわからなかったりするけれども、総じて明快によく書けている、と思う。『思想』論文もそうだが、吉田氏にはドイツ圏の音楽哲学について今後とも頑張ってもらいたい(というのは、ぼくがドイツ語が苦手だという、わがままからですけれど……)(汗)。
2010年11月27日土曜日
論文
眼科で長い間待たされたので、ほぼ『思想』を読了した。いろいろと考えさせられたが(帰りに夙川から歩いたのでこれまた思考時間がたっぷりあったわけだ)、論文というものは、いたずらな科学性でもだめだし、単なる感想でももちろんだめ。論理性が最低限あった上で、そのうえ「面白い」ということにつきるのかなと思ったのでした。村上君のよく言う、面白い「ネタ」が大事ということだな、実生活でも論文でも……(?)。しかしまた、それが「つぼにはまる」かどうかは、運次第ということになるか?
経過観察
左眼の経過観察に、門戸厄神まで行って来た。最初に行ったときもそう思ったが、実に西宮のこの辺りは殺伐とした風景が広がっている。しかし、そう妻に言ったら、あなたの実家の辺り(東京小平)もそうじゃない、と言われた。うーむ、確かに似ているかも。要は、ちょっと前まで、田畑が広がっていたところを、ベッドタウン開発で都市計画も何もなしに闇雲に宅地にしてしまったので、こういう結果になったのではないだろうか。
2010年11月25日木曜日
2010年11月24日水曜日
Brunhild
Luc Ferrari の奥さんの Brunhild からメールで返事が来た。ぼくのフランス語版「狂気の西洋音楽史序説」を送っておいたのだった。彼女はフェラーリの残した録音の整理をしたり、それを基に自分の「演奏」(デッキの)をしたりしている。最近は、アンサンブル・ゴルというのと演奏をしたらしい。ちなみにネットで調べたら、こうあった。
GOL
L’ensemble GOL est formé en 1988 à Paris, par Jean-Marcel Busson, Frederic Rebotier, Ravi Shardja et Samon Takahashi. Après de nombreux concerts et un album vinyl paru en 1993 (Gol 01), le groupe fait une pause de presque 10 ans. En 2002, le groupe se reforme pour d’occasionnelles sessions d’enregistrement et quelques apparitions sur scène. GOL joue plus ou moins de la flûte, des trompes, de la guitare, du violon, des jouets, des instruments fabriqués, des bandes, des platines, de la voix, diverses percussions, et de l’électronique. La musique, orientée acoustique mais hautement électrique, est entièrement improvisée et émane le parfum de la violente immobilité de la campagne au milieu de l’été. » (inhttp://www.myspace.com/corporatemambo)
2010年11月22日月曜日
古本
神戸三宮のアーケードの古本屋で、マルセル・ブリオン『シューマンとロマン主義の時代』、ハンス=ヨーゼフ・オルタイル編『ローベルト/クララ・シューマン愛の手紙』を購入。どちらも国際文化出版社発行で、どちらも喜多尾道冬ほか訳のもの。しかし、この喜多尾という人はドイツ語専門の人のようなのに、ブリオンの著書(フランス語)を訳しているというのは驚きである。
一昨日は
一昨日は、有賀のゆり先生の春の叙勲をお祝いする会に京都まで行って来た。82歳になられるということだが、甥御さんの奥さんのチェロとのデュオ(バッハ)や、ソロ(クープラン、バッハなど)では、ばりばりの現役でおられる。しかし、チェンバロというものはやはりよいものですね。先生は見事にさまざまな音色を操っておられて、大感心。指の使い方がピアノとは全く違うことも再認識したのだった。
2010年11月21日日曜日
バッハ復活
小林義武『バッハ復活』再読了。前に持っていたのはエディタースクール版の初版であった。小林先生は、『バッハ復活』が春秋社によって「復活」したと書いている(ちょっと笑)が、その著者紹介は「復活」しそこなって、「オーストラリア政府奨学生としてウィーン大学に留学」(苦笑)とある。デーメルにコアラが出てきそうである。
2010年11月20日土曜日
Lauragais
先日、ゆみさんの家に泊まらせていただいていた時に、近くのアリーグルの市場の蚤の市で買った、Villefranche-de-Lauragais の教会の絵の皿。
より近付いた画像はこちら。
Villefranche-de-Lauragais はセヴラックの生まれ故郷の Saint-Félix-de-Lauragais より西南に約20キロ離れた、その辺りでは大きな町である。トゥールーズとカルカッソンヌを結ぶ国道113号線上にある。南仏から遠く離れたパリでこのような皿と遭遇するなんて、天がぼくにセヴラックについてよく働けよ、と言っているような気がしたのでした。多分、ベートーヴェンの墓で錆びたペンを見つけたシューマンも似たような気持ちだったでしょう。
包装
バーバリーのコートの袖がほつれてきたので、修繕に出しておいたのが、出来て送られて来た。しかし、たった数百円で、きちんと自宅玄関までしっかりと包装されて送られて来るなんて、日本は本当に便利な国である。ちょっと異様にしっかりし過ぎている感もあるが(包装紙などの無駄が……)。
2010年11月19日金曜日
車検
車検で、エンジンオイル、バッテリー、タイヤまで交換。その他諸々も。するとやはり走りはごく快調である。その上、車内・車外すみずみまで掃除されているのもとても気持ちがよい。(普段、ほとんど車内掃除はせず、洗車などは全くしないので……。むむ……。)
種田
芦屋の書店にぼくの本が置いてあるか気になったので見に行ったが、なかった!「ゆるすまじ、ニャジラ!」というわけで、手持ち無沙汰なので立ち読みをしていたら、永井荷風の伝記に遭遇。そこで種田を探すと案の定あった。これはぼくの大叔母の夫である。種田政明という。そして同姓同名の明治時代の薩摩の将軍(暗殺された)がいるが、それは彼の祖父(?)にあたるそうだ。本当だろうか?
2010年11月18日木曜日
2010年11月17日水曜日
ドイツ語学
河崎靖『ドイツ語学への誘い』読了。その46頁に、ルターの手紙に文頭に形式的主語「Es」を置く例が見られるという。それまで、文頭にも動詞が来ていたが、それが「動詞の定型第二位の原則」を守るようになって、そうなったのだという。そして、直後に互さんから貰った『エスの系譜』を読み始めた。
2010年11月16日火曜日
Allain Gaussin
ゴーサン氏から彼の詩集(Allain Gaussin, L'attente... L'absolu, Die erwartung... Das unbeschränkte, Editions d'Ecarts, 2009)が送られて来たのだが、まだちゃんと返事をしていない。この翻訳を柴田君にして貰って、来年の日本公演に使おうという計画なのである。
Pessoa
Fernando Pessoa のプレイアード版があるのを知って、早速手に入れた(Pessoa, Oeuvres poétiques, Gallimard, 2001)。少しずつ楽しみながら読んでいる。
2010年11月15日月曜日
2010年11月13日土曜日
ドレフュス事件
『ドレフュス事件のなかの科学』読了。セヴラックもダンディも関係がある話である。特にダンディは、強烈な反ドレフュス派だったから、いろいろと考えることが可能だろう。また、中に19世紀の心理学が実証科学的な性格を追求して行く話があったが、以前に査読をした論文の中に、フランス音楽学が科学性を持つようになったのは実験心理学の手助けがあったからだ、という論旨があったのを思い出した。それによって考えてみると、どうも「音楽学が実験心理学を利用した」のではなくて、その逆に「実験心理学が音楽的なデータも扱ってみた」というのが真実のように思える。
2010年11月10日水曜日
サン=サーンス
菅野賢治『ドレフュス事件のなかの科学』によれば、エドゥアール・トゥールーズというサン=タンヌ精神病院医師が、さまざまな知的卓越者の「身体測定」を企てた中に、サン=サーンスもその候補者となっていたらしい。最終的にはエミール・ゾラとアンリ・ポワンカレだけが、実際にその対象となったにとどまったという。筆相学に始まり、頭蓋測定など「身体測定」によって、その人間の性質もわかるという思想が、最終的に「科学的」反ユダヤ主義のさまざまな要素の一つとなることをこの書は解明して行くのだが、なぜサン=サーンスなのか?もちろん、神童としてそのキャリアを始め、詩人でもあり、天文学、数学、絵画などにも秀でた、卓越した作曲家・オルガニスト・ピアニストであるから、当然なのだろうが。しかし……。ぼくは、彼の墓を見に行ったのだが、そこには「ユダヤの星」があったのを見たのだ。しかし、彼がユダヤ系だということは、どこにも見当たらない。要確認である。
2010年11月9日火曜日
裁かるるジャンヌ
同大寒梅館で、鈴木治行さん伴奏の『裁かるるジャンヌ』を見る。きちんとした伴奏音楽だったので気持ちよく聞けた。(ときおり「意図的な」ずれもあり、それも面白かった。)しかし、アントナン・アルトーのかっこいいこと!(若い!!)そして、どこかにミシェル・シモンがいたはずなのだが、わからなかった。出口で、鈴木さんのCD『語りもの』を買う。
2010年11月8日月曜日
そこにないもの
ぼくが『セヴラック』を書けたのは、すでにそこにないものだったからではないだろうか(註)。そしてまさしくセヴラック自身が自分の音楽でそれを描いている。
註:ぼくは、フランスにいた頃は、事情はどうあれ、夏休みだけではなく、休みといえば、南仏モンペリエに行っていたものだった。
註:ぼくは、フランスにいた頃は、事情はどうあれ、夏休みだけではなく、休みといえば、南仏モンペリエに行っていたものだった。
キンモクセイ2
家のキンモクセイが今日やっと満開になりました。
ふとみると、家のマンションの前の家でも、また山幹の駅まで行く途中の家でも、咲いているキンモクセイがあります。つまり、今頃に咲くキンモクセイもあるということ。しかし、キンモクセイというのは、ある時期に中国から輸入され、それの接ぎ木で普及して行ったので、実際には一本の樹しかないのだ、ということを読んだことがあります。すると、このように二つの時期に分かれて咲くのは少々辻褄が合わないことになりますね。
ふとみると、家のマンションの前の家でも、また山幹の駅まで行く途中の家でも、咲いているキンモクセイがあります。つまり、今頃に咲くキンモクセイもあるということ。しかし、キンモクセイというのは、ある時期に中国から輸入され、それの接ぎ木で普及して行ったので、実際には一本の樹しかないのだ、ということを読んだことがあります。すると、このように二つの時期に分かれて咲くのは少々辻褄が合わないことになりますね。
2010年11月7日日曜日
子ども祝福
朝は北野バプテスト教会で「子ども祝福礼拝」。その後、神仙閣で昼食。今日は特にフカヒレスープと焼きそばが格別であった。夕方に芦屋の美術博物館で行われていた古本市。エドワード・リアのナンセンス絵本の復刻版というのがあったので購入(これは全く同じものが隣のブースで500円高かったのでちょっと得した気分)。他には田邊尚雄『島国の唄と踊』(昭和2年刊)、現代詩文庫をいくつか(入沢康夫、吉野弘、吉本隆明)。コクトーのサイン入り本が3万円で売られていた。別にコクトー・ファンではないので買わず。
2010年11月6日土曜日
添付書類
やっと自分の論文をPDFファイルにする術を手に入れたのだが、喜んでこれをメール添付書類にしてフランスの友人たちに送ろうとしたところ、問題が噴出!どうも容量の問題らしい。家で作業しているので、ウェッブメールシステムを使っているのだが、それが原因だろうか?なんだか疲れた……。これを何て言うんだっけ?なんとか損のくたびれ儲け……ええっと……。そうそう、骨折り損のくたびれ儲け、だ。
キンモクセイ
家のベランダのキンモクセイがやっと開花!(というか、そろそろですが……。)つぼみが出来てから異常に長かったので、ついに咲かないのではないのか、と心配していました。ちまたの他のキンモクセイは、すでにもう3週間くらい前には咲いていたので、家のはどうしたのか?と思っていました。
2010年11月3日水曜日
2010年11月2日火曜日
こっくりさん
「こっくりさん」は、日本では、私たちの世代(1960年代生まれ)にとって、小学生時代に大流行していた記憶がある(妻とその話題になった)。これは「高度成長期」と重なる。この時期に、例えば「精神的方面がなおざりにされていた」というのがその流行の理由というように説明も可能だ。
心霊術
シューマンやイェリー・ダラーニの心霊術との関係は、思想史・社会史的な文脈で、例えば、シューマンの場合は1848年革命の挫折、ダラーニの場合はナチス政権の支配や世界大戦の危機などへの、一種の精神的応答(?)という説明も十分に可能だ。いわゆる「こっくりさん」が、南北戦争の危機の時期にアメリカで大流行した(それが、黒船に乗って日本にも渡って来た)というのも、全く同じ説明ができる。しかし……。
2010年10月31日日曜日
2010年10月29日金曜日
2010年10月28日木曜日
細川周平さん
それに関連して。周平さんは、音楽記号学などの抽象的思考ではなく、実証的学問を目指すと言う。その方がよいのだ、と。彼の最近の日本ポピュラー音楽史はその一端である。かくいう私も、『セヴラック伝』でそれを見習ったつもり。
妄想
表紙と『思想』論文ゲラが到着。しかし、ぼくの書いたものが全て妄想だったとしたら?(そしてほぼそう思っているが。)それでもなお「シューマンと宗教」のことなど考えるのはなぜか?つまりは、やっと一段落したので互さんの本や伊東さんの本を読んでいる影響だ。
2010年10月26日火曜日
シューマンと宗教
シューマンはいつも黒ずくめの服を来ていたので(まるで大里さんだ!)、しばしば聖職者と間違われたそうだ。デュッセルドルフで彼は「カトリック圏のプロテスタント」という状態だったらしい。しかし、そこで《ミサ曲》と《レクイエム》を書いている。これはなにか?そしてまた、ドレスデンにいたシュレーバーの妄想の中には、しばしばカトリック関係のものが登場する。しかし、彼自身はプロテスタントで、これは「カトリックの陰謀」のような形の妄想だ。この辺りはなかなか日本にいてはよくわからない。しかし、要考究である。さらに考えてみると、ライプツィヒだって、たとえばバッハは《ロ短調ミサ》を書いているぞ。うーむ……。小林義武先生の『バッハ復活』を読み直さねば……、と思ったら、この本はパリだかモンペリエだかのどこかで行方不明になっているのだった。困ったもんだ……。
2010年10月24日日曜日
Guillot 先生からの手紙
Pierre Guillot 先生からの返信が届いた。Nouvelle Revue d'Esthétique に載った論文と共に近況を知らせたのだったが、セヴラック歌曲を録音したことを書いたら、「Après Gabriel Bacquier, François LeRoux, votre version, je n'en doute pas, sera la référence.」と書いてくれたのが嬉しかった。そして、最後に「Vos nouvelles me font toujours plaisir. Alors, si vous avez le temps, n'en soyez pas avare.」というのも。(しかし、論文そのものには、多少懐疑的ではあったようだ。つまりは、音楽では「言語的に」 ― 彼の言うのは、「音楽言語」的にという意味だが ― 狂的であったのは、モンテヴェルディに始まる、いわゆる「大音楽家」たち全員である、という意見である。)
2010年10月23日土曜日
2010年10月22日金曜日
2010年10月21日木曜日
シューマンの日記
昨日、シューマン夫妻の日記読了 (Robert et Clara Schumann, Journal intime, Buchet/Chatel, Paris, 2009)。フランス語訳で、かなり編集されている。しかし、手軽に、この原文では膨大な資料を知ることができる。日本語でこのようなものがないのは何故?(しかし、フランス語の「livre de raison」というのは、ドイツ語では何なのだろう?)
2010年10月15日金曜日
Daniel Charles
研究室を整理していたら、こんな写真が出て来た。
これは、ダニエル・シャルルが日本に来た時に、一緒に銀座のヤマハに行った時の写真である。もう20年前くらいになるだろうか。そして、なんと、この写真を撮ったのは大里さんである。この時に、DCがシベリウスについての英語の本を買っていたのを見て、大里さんとなんでこんな時代遅れの作曲家の本を?と訊いたら、シベリウスこそ今、新しいのだ、というようなことを言っていて、なるほど、と思ったりしたのだった。この時は、彼は国立音大で講演をして、その通訳が庄野進さんで、途中で(ちょうど「ストラトス」についての彼一流のシャレを言っていた)訳がわからなくなって、客席に助けを求めたりしていた。よっぽど何か言おうかと思ったが、当時はシャイだったのでそんなことできなかった。この銀座散歩のときは、大里さんとぼくがお供をして、ちょっと小腹がすいたとか言って、銀座の喫茶店(中村屋パーラー?)で、赤ワイン一本と少々のチーズを全部たいらげてしまっていたのには、大里さんと一緒に、驚いた覚えがある。
2010年10月14日木曜日
忘れ得ぬ人々
昨年末パリで飛行機に乗れず市内に引き返した時、エールフランスが用意したタクシーの運転手。クリスマス休暇の渋滞に巻き込まれ、よもやま話するうちに意気投合。降りる時には握手までして別れた。彼は今どうしているだろう。メニルモンタンに住んでいて、最高だと言っていたが……。
2010年10月11日月曜日
2010年10月10日日曜日
イランイラン
須磨離宮公園に「ローズ・ガーデン」が開設されているときいて行ってみた。しかし、薔薇はまだまだ咲き初めという感じ。でも、植物園の温室に「イランイラン」が咲いていた。匂いに期待したのだが、それほどでもない。これも夜来香と同様、夜に匂うのだろうか。
2010年10月8日金曜日
2010年10月7日木曜日
2010年10月2日土曜日
2010年9月30日木曜日
公開レッスン
同女でモニックさんに室内楽公開レッスンをして貰った。ウェーバーのフルート・トリオ、ガブリエリのカンツォン「ラ・スピリタータ」、ラヴェルのマ・メール・ロア、ピアノ二台八手のスラブ舞曲。うち三組が私のクラスの学生だった。晩には海老坂先生とゆみさんを交えて食事。摂津本山のイタリアン、ルッカ。
2010年9月27日月曜日
2010年9月26日日曜日
松葉祥一『哲学的なものと政治的なもの』
松葉氏から彼の近著『哲学的なものと政治的なもの ― 開かれた現象学のために』(青土社)が送られて来た。以前に目にしていた雑誌論文なども含まれているが、こうして集められていると一望に見られて便利である。しかし、内容的にはなかなかのハードな書物。
2010年9月25日土曜日
2010年9月23日木曜日
2010年9月22日水曜日
2010年9月20日月曜日
中野先生
夕べは中野慶理先生のリサイタルに行って来た。シマノフスキー《ソナタ第三番》やら、中後期のスクリャービンなど、なかなか野心的なプログラム。よかったです。アンコールは(恐らく彼自身編曲の)《火祭りの踊り》がサービスたっぷりでした。
2010年9月17日金曜日
御所の池
今日からゼミ合宿。その前に修論発表会あり。しかし音楽の発表に遅刻(汗)。仕方なく合宿集合時間まで御所散歩。この池周辺はけっこう気にいってる。昔の近衛邸跡でその豪華な庭だったのだろう。池の端に苔むした橋がある。かつてどんな人物が渡ったのか。
2010年9月15日水曜日
フランスへの手紙
東京でCD録音している最中に、芦屋の家にピエール・ギヨー先生から最近の消息を尋ねる手紙が。確かに春にセヴラックのオペラの足りない頁と教会用のカンティックの足りない曲を送ってもらってままになっていた。今回、せっかくフランス語の論文も出版されたのでそれをコピーして送ろうと思った。そして、これもまたついでというのも何だが、しばらく音信不通になっていたバスのマルク・フーケにも手紙を書く。彼とは(ソプラノのエステル・デュラン=マルテルと共に)UFAMのコンクールで賞を貰った仲である。UFAMとは、Union française des artistes musiciens の略。フランス音楽家協会とでも訳すか。
2010年9月12日日曜日
妖怪図鑑
兵庫県立美術館に水木しげる妖怪図鑑を見に行く。開館前からすごい行列だった。これは入口の記念撮影用セット。一反木綿の尻尾が写っています。乗って撮影も可。夜はゴーサン氏と会食。梅田阪急32番街というところのフレンチ、シェ・クリヨン。地上31階だから眺めはすごくいいが、料理がいまいち。彼のオジーヴ・プロジェクトの話。なかなか、フランス政府もお金がなくて大変そうだ。早くて2012年秋の実現ということ。
2010年9月11日土曜日
Steinway = Mercedes ?
昨日は、昼に神保町で岩波書店の互さんと(初めて!)会って、古賀書店を見たのち、帰芦。古賀では、クルシェネクの《ソナタ》やレスピーギの歌曲、ディーリアスのピアノ曲集、ヴェケルランの民謡集など購入。夜にゴーサン氏から電話。日曜に会う約束をする。今回の録音では、ホールのスタインウェイを使用したのだが、実は少々ベーゼンドルファーを期待したのだった。しかし、あらゆる用途に適応するという意味ではスタインウェイは正解である。あるサイトに、スタインウェイ=メルセデスベンツ、ベーゼンドルファー=ロールスロイスという等式があって、なるほどと思った。ロールスを運転したことはないが、確かにベンツはあらゆる用途に適している。高速でも、市街地でも実に快適である。私のうちにはプレイエルがあるが、これは場合によっては「うーん?」という時がある。そこで、プレイエル=ルノーというのを考えてみた。フランスにいたときは、ルノーに乗っていたが、高速運転時には多少ひやりとしたことがある。安定性に欠けている気がする。色々なピアノの銘柄についてモニックに訊いてみたら、ファジオリが最高だと言っていた。次がベーゼンだと。ファジオリは弾いたことはないが、するとさしずめこれは、ファジオリ=アルファロメオ?違うかな?
2010年9月9日木曜日
録音最終日
録音の設置の具合はこんな感じ。舞台のはじでピアノの方に向かって歌うのは、小島さんの発案。今日は残りの録音と聴き直し、気になる部分の録り直し。いちおう全部終わりました。途中評論家の岸さん(?)が陣中見舞い。夜はゆみさん、モニックさんと打ち上げ。海老坂先生行きつけの吉祥寺ボンヴィヴァン。彼の羨むこと!
2010年9月8日水曜日
2010年9月7日火曜日
2010年9月4日土曜日
Eloy et Gaussin
Eloy 氏と親しいイタリア人の音楽学者という人から英語でメールが来て、彼は大怪我をして入院しているので、この九月には京都には来れないとのこと。この音楽学者はドイツに住んでいるらしい。(フランス人と親しいドイツに住んでいるイタリア人から英語で日本人にメールが来ているのである!)そして、Allain Gaussin から携帯に留守電が。9月6日から二週間大阪に来るらしい。いつものようにヨーコ・クボにぎゅうぎゅうにスケジュールを詰め込まれているが、その合間にぜひ会いたいと。
2010年9月1日水曜日
2010年8月31日火曜日
モニック
モニックさん来日。我々のCD録音の artistic director として参加してもらう予定。関空に(そして海老坂邸に)着いたその足で我が家でのゆみさんとの打ち合わせ(兼、リハ)。すごいパワーである!
2010年8月30日月曜日
2010年8月27日金曜日
大倉侍郎『せんをひく』
大倉さんから彼の絵本が送られて来た。大倉侍郎『せんをひく』(福音館書店)。ただ線を引いているだけなのだが、これがとてもよい。子供たちに読み聴かせすると大受けであった。おすすめである。
2010年8月25日水曜日
A faire
Maintenant à faire :
(1) Traduction des paroles des mélodies et des chansons de Séverac (aujourd'hui faite) ;
(2) Entrainements pour l'enregistrement du CD (du 7 au 9 septembre à Tokyo) ;
(3) Relecture du manuscrit (tapuscrit) pour Iwanami (presque finie) ;
(4) Traduction de Charles Rosen pour la Shiso ;
(5) Rédaction d'un article pour la Shiso.
(6) "Zatsuyô" à l'école.
Je crois que c'est tout....
(1) Traduction des paroles des mélodies et des chansons de Séverac (aujourd'hui faite) ;
(2) Entrainements pour l'enregistrement du CD (du 7 au 9 septembre à Tokyo) ;
(3) Relecture du manuscrit (tapuscrit) pour Iwanami (presque finie) ;
(4) Traduction de Charles Rosen pour la Shiso ;
(5) Rédaction d'un article pour la Shiso.
(6) "Zatsuyô" à l'école.
Je crois que c'est tout....
2010年8月24日火曜日
酷暑
酷暑である。しかし何とか(忘れていた、苦笑)査読を終え、原稿を送り、元町へ。眼鏡の修理が出来ていたのでそれを貰い、洋食屋「so-hey」。コロッケ、ミンチカツ重ね揚げ定食。ころものカリカリ感はよいが、デミグラがうまみ少なく、苦い。まあまあか。大丸でちょっと買い物して、早々に退散。南京町(「双平」はそこにある)を通ったが、サウナ状態。そんな中で立ち食いしている人々もいて、すごいと思いました。
2010年8月22日日曜日
CD
子供らと三宮の HMV で CD を買っていたのをすっかり忘れていた。いせはアラシの DVD だかなんだかを買っていたが、私のは:David Munrow の The Art of the Netherlands という二枚組(ジョスカンやらオケゲムやらが入っている。ジャン・ムートンもあり。)、フランスの Tahra という見知らぬレーベルの Tribute to Clara Haskil & Dinu Lipatti (リパッティのインタビューあり!)、そして EMI の二枚組 Stockhausen である。シュトックハウゼンのものには Zyklus や Spiral や Japan が入っているが、特にエトヴォシュが演奏で参加しているのが面白い。
2010年8月20日金曜日
光化門
光化門は、日本の韓国植民時代に柳宗悦が保存を訴えたことで有名だ。その後、保存はされたが移動されて、そこに日本の総督府が建てられていた。以前にソウルを訪れた時はそれがまだあったが、今回はそれを取り壊し、以前の位置に門を再建したのを見ることができた。その公開はまさに我々がソウルに到着した8月15日。だから大変な人出だったのである。大統領の演説などもあったらしい。
帰国
夕べ遅くに帰国。フランスに帰る子供らを仁川(インチョン)空港にまず送って、それから自分は金浦(ギンポ)空港に移る。その時に e-ticket を自分の分まで子供らに渡してしまい、困ったことに。全く自分の便についてはメモも何もしていなかったので、金浦空港で「さまよえる日本人」になってしまった。JAL のデスクにいろいろ訊いて、まあ何とか帰ることができた。しかし、帰ってからお土産の青磁の皿の包みを開けてみると、4枚のうち3枚がぼろぼろに!ショック!
2010年8月18日水曜日
ソウル4
学会のエクスカーションはパス。しかし朝からホテルのロビーで東大の(今橋さんの弟子という)佐々木君(?)やさまざまな VIP に囲まれた芳賀先生などに会ってしまう。小夜の希望で昨日から Dr. Martens (あの子らの発音だと「毒丸珍」と聞こえる) を探す。東大門にあるはずがなかったり休みだったり。結局新世界百貨店にある。その後ロッテデパートで昼食買い。その後景福宮(キョンボックン)。復元された光化門(クヮンファムン)が美しい。衛兵の行進。そして仁寺洞(インサドン)へ。横道の伝統的な喫茶店へ。ソウルの小さい通りは魅力いっぱいである。青磁の土産購入。ひどい夕立に会う。びしょ濡れ。タクシーでホテルに帰って夕食は正統派焼肉「ノビチプ」うまさ堪能である!
2010年8月17日火曜日
2010年8月16日月曜日
ソウル2
学会、子供たちとの買い物(明洞ミョンドン)。夜はまたまたどんどん酷くなる雑踏の中(屋台の列が延びる)、明洞の先の「古宮(コグン)」へ。本物の全州ビビンバを堪能!これは食べ物の無形文化財だそうだ。(別に「なんとかまろ」の言い草ではない。「本当に」韓国ではこのようなものがあるらしい。)
2010年8月15日日曜日
ソウル
今日から国際比較文学会ソウル世界大会。朝早く起きて、フランスの子らと JAL に文字通り飛び乗る。夏休み真っ最中を計算に入れなかった(汗)。ソウルに着いてみると、こっちはこっちで独立記念日の騒ぎである。学会会場は中央大学校。市内から遠く、記念日の渋滞!オープニングパーティでは、芳賀先生やら李応寿先生やら川本先生やら色々な人に挨拶。エジプトやレバノンやクエートの学者先生たちと知り合う(なぜ中東系?なぞです)。
2010年8月13日金曜日
カラオケ
昨日は子供たち&村上君とカラオケ。子供らは、椎名林檎やら土屋アンナやらカントリーロードやら「パンダうさぎコアラ」やらを歌っていたが、私はゲンズブールの Le poinçonneur des Lilas があったのでそれを、村上君は「定番」のバイキング他を歌いました。Des p'tits trous, des p'tits trous と調子に乗っていたら、晩に眼鏡がぶっこわれた。
2010年8月11日水曜日
2010年8月10日火曜日
帰芦
昨日、帰芦。その前の晩の東京は豪雨で昨日は一般に涼しかったが、関西は相変わらず蒸し暑い。書かなかったが、東京立川で新ジブリの『借りくらしのアリエッティ』を見た。『ポニョ』より人気というから多少期待したが、がっかり。第一、あの超西洋風の超豪邸に(それが昭和日本家屋風の匂いを持つとは言え)どのように感情移入したらよいのか。そして床下の小人たちのまたまた超西洋風な装い。設定が東京郊外(祖母の運転するベンツは多摩ナンバーだ)というのが問題(かな?)。
2010年8月9日月曜日
2010年8月6日金曜日
2010年8月3日火曜日
Mary Stuart
Schumann, Mary Stuart Lieder をロスアンヘレスが歌っているのをゆみさんから頂いた。さっそく帰国後に聴いてみるに、これがすごくいい。フランス語で歌っている。そんなヴァージョンがあるとは知らなかった。ピアノは誰なんだろう?
2010年8月2日月曜日
帰国
昨日帰国。やはり日本はものすごく「蒸し暑い」!最後の晩はヴォルテールの近くのイタリア料理 La Barcarola da Angelo。その店も「最後の晩」で翌日から夏休みだそうだ。Antipasto misto を頼んだらその量に圧倒される。しかし、おいしかった。帰国便機内では、Gainsbourg の伝記映画をやっていた。やはり彼は「かっこいい!」
2010年7月30日金曜日
2010年7月29日木曜日
Paris2
昨日は Monique の後、ゆみ邸で夕食。小夜も一緒。食後送りに行って、山田に会う。今日は午前中 Chatelet の FNAC。Le Coeur du moulin CDとNouvelle Revue d'Esthétique を(自腹で!)購入。PUF は何やっとるんだ!
2010年7月28日水曜日
というわけで
というわけでパリに到着。確かにシーズン真っ只中なのに関空はガラガラである。大丈夫か、関空!飛行機も順調で予定より30分早く到着。パリ最高気温25度というから涼しいかと思ったら、けっこう湿度もあり風もなく暑い。ゆみさん宅にお世話になる。屋上のテラスでアペロとお食事。
2010年7月26日月曜日
夏期講習
私は初日の講義と二日目の講演・およびコンサート解説をした。講習は三日目もあるが、いちおうこれで「お役御免」にしていただいた。帰りに北新地で久しぶりに村上君と一杯。天神祭帰りの浴衣を着た人たちが沢山地下鉄に乗っていた。今日はパリ行きの準備。
2010年7月24日土曜日
Alfred Jaëll
Tunbridge の本を再読中。シューマンの《ヴァイオリン・ソナタ》第2番を国外で演奏した人として、ヴュータンとジャエルの名前が挙がっていたのだが、ちょうど査読を頼まれている論文にそのジャエルの奥さんの名前があり、驚く。(出会った順番は逆でしたけれども。)これも、いわゆる「コレスポンダンス」ですかね(フロイトさん?)。
2010年7月21日水曜日
今日も
今日もJRはまともに動いていない。今は尼崎駅前で立ち往生。Je ne veux pas travailler...の歌が頭の中を横切る(Poulenc のではなくて Pink Martini のやつ)。暇なので吊り広告を眺めていると、「ますぞえ(変換されない)要一、結局あなたは何をしたかったのか」の文字に笑いました。そういえば選挙運動期間中に彼が芦屋に応援に来たことがあった。単に選挙カーに乗っていただけだったが。あやうく三十年ぶりの師弟対決になるところだった(笑)。
2010年7月20日火曜日
JR不通
学研都市線が松井山手と京田辺の間で不通で、復旧のめどが立たないということで、振替輸送というものをさせられる(輸送される?)ことになった。松井山手から河内磐船まで戻り、河内森というところから京阪電車に乗り、枚方市という駅で乗り換えて、京都方面行きの電車に乗って丹波橋で近鉄に乗り換え、新田辺に着いた。さすがにこの暑さで興戸から歩く気はしなかったので、新田辺からタクシーに乗った。枚方市というところを初めて見た。なるほど、けっこう「町」である。しかし、いきなりこのような大旅行をしてしまうとは思わなかった。せっかくなので、新田辺駅では松下先生御用達の「柿の葉寿司」を購入。500円で穴子巻きと稲荷鮨がたくさん入っている。おいしかった。
2010年7月19日月曜日
手塚治虫
手塚治虫記念館に行く。空いていてとてもよい。漫画は読み放題だし、短編アニメの上映あり、アニメ制作あり。帰りには宝塚ホテルまで歩いて、そこで昼食。ここもよかった。アイスコーヒーは30年前の味?
2010年7月18日日曜日
日本比較文学会
日本比較文学会関西支部の7月例会のお世話をした。会場に同女今出川のジェームズ館を使用したのである。立て看を用意したり、ポスターを貼ったりした。ちょうど祇園祭の当日で、地下鉄など大変な人出であった。元学長の児玉先生が例会後にキャンパス案内をしてくださった。しかし余りの暑さに倒れるかと思った。やはり京都の夏の暑さは鬼門である。(フランスから最初に京都に赴任した夏にこれで胃潰瘍になった!!)(更に:芦屋から言えば京都はまさしく東北方面だし……。)
2010年7月16日金曜日
2010年7月15日木曜日
Gesänge der Frühe
Gesänge der Frühe 《暁の歌》作品133の楽譜も手に入れた。もちろん図書館の全集版で知ってはいたが、どうも、自分の楽譜を手に入れて演奏してみると印象が違う。またその前書きで最初のテーマが、ディオティマ Diotima とヒュペリオン Hyperion の名前から来ていることを知った。すなわち、D-A-H-E である。
Violin Sonata no.3
シューマンの《ヴァイオリンソナタ第3番》のCDをやっと手に入れた。(大学図書館にはクラリネットの演奏!などという下手物があったが……。)よく書けている作品だと思うが。やはり気になる点あり。それは、なにか?和声分析をしてみる価値がある?
読了
シュネデール読了。少々面白い点はあるのだが、彼には音楽学的基礎知識が不足しているので、説得力に欠ける。例えば、《夕べに》が変ニ長調から突然ホ長調に変わるのは、フラットが5つからシャープが4つに変わるのだから「遠い」などというのである。この二つの調は、変ニ=嬰ハ(シャープ4つ)であるから、実は非常に「近い」調である。万事がこの調子なので、せっかく面白そうなことを言っても、なんだか全部うさんくさい。
2010年7月14日水曜日
シュネデール
シュネデール『黄昏のアリア』を読み始める。シューマンの晩年を扱ったものということで、タンブリッジも少し引用したりしていたのでちょっと期待したが、だいぶ期待はずれのようだ。残念。(痛み douleur と苦しみ souffrance の違いなど多少面白いけれども……。)
ユング
病跡学がダメなので、ではユングはどうかと思い『創造する無意識』を読んだ。やはりいまいち。フロイトを読み直すに如かずかと思い始めている。ユングの考え方にも問題点多し。例えば「ノイローゼは障害以外の何物でもない」とか「ドイツ人以外には『ファウスト』や『ツァラトゥストラ』は書けなかった」とか。(しかし、ユングはスイス人だよなあ……。するとこれは「皮肉」?)
2010年7月13日火曜日
Heidsieck
ブラームスの《シューマン亡霊主題による変奏曲》作品23のCDを手に入れた。Heidsieck夫妻の演奏で日本製(!)なのだが、解説をハイドシェック(日本語訳にはこうなっている)本人が書いている。それによればこの「シューマン主題」は「精神病院の中で夢の中にメンデルスゾーンが現れて教えた」ものだという(!)。さてでは問題:間違いはいくつ?(答えは3つ。)
2010年7月12日月曜日
Earle Brown
梅田のタワーレコードでシューマンとブラームスのものを探した。(ササヤで楽譜も見ましたよ。)ついでに現代音楽の棚を見たら、Earle Brown Contemporary Sound Series というものを発見!Wergo で昔出ていたものを再編集したもののようだ。
2010年7月11日日曜日
Jean-Claude Eloy
突然、Jean-Claude Eloy からメールあり。9月にひと月京都に家を借りたと言う。会えたら嬉しいと。さかんに大雲寺のことを気にしていた。彼が西鶴をもとに奈良ゆみさんに書いた作品の舞台だと言うのだが。そこに五百羅漢があって、それを背景にしたと。溝口作品にあるというのだが、ぼくは寡聞にして未知。村上君にでも訊いてみよう。
2010年7月9日金曜日
pathographie
pathographie (病跡学)というのは実につまらない「学問」だ。それは、あるいはわかりきった分類学か、あるいは単なる覗き見趣味である。読んだのは、ランゲ=アイヒバウム『天才』と徳田良仁『創造と狂気』の二冊。以前に既にクレッチマーの『天才の心理学』は読んでいた。ランゲ=アイヒバウムが「精神病者と健常者はすぐわかる。プロシャ軍隊の行進と精神病者の行進を比べてみるが良い」と言っているのには驚倒した。(ちなみにこの本は1941年のものだ。)中に、病跡学者の例として、1890年メービウスの名あり。彼はシューマンについても書いていた筈。
2010年7月8日木曜日
2010年7月6日火曜日
岡田承前
岡田はまたシェーンベルクらが労働者のために演奏会を組織したと言うが、これは最初から労働者をターゲットにしていたというよりも、彼らの「新音楽」普及のためにやっと組織できたのが、上流階級やブルジョア向き演奏会ではなかったという結果なのではないか。
2010年7月5日月曜日
Fugenpassion
シューマンが精神的危機に陥るたびに、「Fugenpassionフーガ的情熱」でそれを切り抜けた、というのは興味深い。フーガとは優れてバロック的なジャンル(かつテクニック)である。バロックとクラシックとの様式の差異と絡めて考察すること。(ローゼン)
ソウル国際学会
夏の国際比較文学会ソウル大会の発表のための原稿 "Le mouvement folkloriste dans la musique française" を執筆中。これは昨年初めに日本の比較文学会で日本語で発表したものなので、それをフランス語に直しているのである。
2010年7月2日金曜日
2010年7月1日木曜日
柴田南雄
もう一人の柴田南雄だが、こちらの方は何と当時のぼくは不勉強で余り知らなかった。これもまた大里さんから教わったのである!柴田の「音楽史」の素晴らしさを!大里さんは、書き込みや線曵きで真っ黒になった柴田音楽史を三冊(四冊?)つねに参照していた。岡田は『印象派以後』がよい、と言うが、ぼくに言わせればむしろ柴田音楽史は中世・ルネサンスが圧巻である。今でも、ぼくは授業の準備のためにお世話になっているのである。
吉田秀和
岡田が柴田『マーラー』解説に、吉田秀和と柴田南雄が「アイドル」だった、と書いているが、彼はぼくと同じ歳のはずなのに全く違った意識を持っているのに驚いた。ぼくは高校の頃に友人で詩人の柴田君(奇しくも同名だが)の影響で、萩原朔太郎や中原中也や富永太郎といったものを耽読していたのだが、そんなレパートリーの中に幸か不幸か小林秀雄も混ざっていたのだった。そして、吉田の評論を読むと、出来の悪い小林の模倣という感が否めなかったのだった。「走る哀しみ」のモーツァルトの方が、シューマンのピアノ協奏曲を聴いて日比谷公園で「手の中の石を握りしめる」よりも、まだポエティックである。でも、吉田秀和の悪口を言うとあらゆるところから袋だたきに会うので、日本はまだまだだな、と思う。
ピアニストの横山
学校の事務に『音楽之友』が置いてあったので、ぱらぱら見ていたら、横山幸雄の記事が出ていた。ショパン全曲を一日で(?)演奏したので、ギネスに登録されたという。これからのピアニスト(演奏家)は、普通に演奏していたのではダメで、このようにギネスに挑戦したり、某や某のように身体が何かしら不自由であったり、ということが必要だという意見を聞いたことがあるのを思い出した(横山という人は、確か以前ソムリエか何かの資格をとって、ソムリエ・ピアニストとして話題になっていた気がする)。しかし、これは誰も知らないから言うが、大里さんがパリ大学都市にいたとき、日本館にはこの横山がいて、演奏会をしたことがあった。大里さんは、機材の設定などが完璧に(!!)出来るので、日本館の出し物の時には必ず手伝っていた。横山の時もそうで、しかし余りにその文句が多いので、あの大里さんが「全く何様のつもりだ」と言って怒っていたのだった。というような、色々のことを勘案するに、つまりは彼は「音楽」とは何の関係もないということらしい。Le pauvre !
しかし考えてみると
しかし考えてみると、中学時代に(当時は日本語しか読めなかったので)日本語でショパンについて書かれたものを片っ端から読んだが、どれも自分の熱意に見合うようなものはなかった。音楽「について」書かれたものは、その音楽の高みにまで至らないから?あるいは、日本語が音楽を語るのに適していないのか?
2010年6月30日水曜日
Tagebücher Robert Schumanns
シューマンの『日記』を探していたが、久しく絶版の上に中古も高いので困っていたが、「灯台もと暗し」!同女の図書館にあったとは!誰が入れたのだろう?小林義武先生だろうか?
2010年6月29日火曜日
柴田マーラー
柴田南雄『マーラー』の解説を岡田暁生が書いているが、19世紀末から20世紀初めのウィーンでは一部上流階級だけの音楽が労働者や下層市民階級によっても享受され、さらには演奏までされるようになった、と言う。そして、マーラーのシンフォニーを彼らが演奏していた、と。これはちょっと違うと思う。ただし、ウィーンの特殊事情というものがあるかも知れないが。それにしても、ライプツィヒなどでは、すでに19世紀初頭から合唱や室内楽が一般市民によって行われていた(これは、シュレーバーについて調べたので確かです)。シューマンやメンデルスゾーンが、ビーダーマイヤー様式とか、Hausmusik などというものに手を染めていたこともある。ウィーンだけ特別ですか?
2010年6月28日月曜日
2010年6月26日土曜日
2010年6月25日金曜日
2010年6月24日木曜日
ダヴェリオ
Daverio, Schumann 読了。非常に良い本であった。なにしろ著者のシューマンへの愛が伝わってくる。最後に「この散文的世界にはシューマンのような詩的存在が必要」と著者はいうが、全く同感。しかし、思うに、とても普通の人だった著者が、一挙にその異常な死によってその存在を「詩的なもの」としてしまったことは、運命の皮肉ととるか恩寵ととるか。
2010年6月22日火曜日
2010年6月20日日曜日
Art brut
Art brut japonais の展覧会がパリで開催されているという、そのことについての番組を見た。障害者の芸術というものは、実は「芸術」というもののまさに「生の brut」姿なのではないか。昇華作用についての、フロイトの芸術理論も思い起される。要追求。シューマンに関しても。
2010年6月19日土曜日
リスト
フランツ・リストと言えば、彼がシューマンの家に遊びに行った時に聴かされた《ピアノ五重奏曲》について、「余りにライプツィヒ風だ」と言ったというがそれはどういう意味か。シューマンは、馬鹿にされたと思って怒ったらしいが……。
2010年6月18日金曜日
2010年6月16日水曜日
2010年6月15日火曜日
フロイト
フロイトが「音痴」だったというのは、やはり音楽的意味がエゾテリックというのが原因だろう。彼の芸術(存在)論はやはり示唆に富むし、歌詞を持つ音楽についてはきちんと論じているのである。モノよりコトバだという『モードの体系』のバルトを思わせる。
2010年6月14日月曜日
2010年6月10日木曜日
2010年6月7日月曜日
西宮北山緑化植物園
西宮北山緑化植物園に行ってきました。奥の方に池があって、そのちょっと先に「見晴し台」があるのですが(大阪湾方面まで見渡せます)、大変にけわしい岩山で遭難しかけました(笑)。
園内ではバラが満開でしたが、こちらの写真は5歳の娘が「勝手に」(!)写したもの。
園内ではバラが満開でしたが、こちらの写真は5歳の娘が「勝手に」(!)写したもの。
2010年6月5日土曜日
とりあえず
とりあえず、結論完成。Mais je ne suis pas tout à fait satisfait.... mmm.... Bon ! Ce qui est fait est fait. Les dés sont jetés. (Mais bien sûr, "un coup de dé jamais n'abolira.. etc.")
Ce qu'il faut faire après : le compte rendu pour le congrés international à Seoul (ICLA), l'article sur Schumann pour Shiso, la traduction pour la même revue, l'enregistrement du CD Séverac.
Ce qu'il faut faire après : le compte rendu pour le congrés international à Seoul (ICLA), l'article sur Schumann pour Shiso, la traduction pour la même revue, l'enregistrement du CD Séverac.
2010年6月4日金曜日
John Daverio
Daverio についての情報をもう少し得ようと、wiki で調べたところ……!!なんと彼は2003年に49歳で亡くなっていた、それもボストンのチャールズ・リヴァーで不可解な溺死体となって発見されたと言う!一部には、シューマンの世界的権威である研究者が、ライン川に身を投げた作曲家にならったのか、という自殺説まで出たと言う。
シューマン伝記
最新情報を得ようとダヴェリオ(という発音なのか?)の分厚い伝記 John Daverio, Robert Schumann : Herald of a "New Poetic Age", Oxford, Oxford U. P.. 1997 を読んでいる。他の論文などもそうだが、この人はものすごい常識人という感じ。だから、シューマンに惹かれるのか?もう一人のタンブリッジ女史は、いろいろフランス現代思想などかじっている「才女」ポーズの人だね。ちなみにダヴおじさんは、バルト大好きでもある。ちょっとセンチな、フツーの人?
2010年5月29日土曜日
Geistervariationen
シューマンのその変奏曲は《亡霊の変奏曲 Geistervariationen》とも呼ばれる。正式には、《ピアノの為の変奏を伴う主題(主題と変奏) Thema mit variationen für das Pianoforte》WoO 24 である。その Geisterthema は、変ホ長調であり、それはなぜかを考えていたら、「わかった」。
2010年5月27日木曜日
2010年5月25日火曜日
フランスの書店
書店にかぎらず、旅行代理店も。あらゆる取引ごとにおいて(?)、フランス人は間違いが多い。chapitre.com で La musique dans le midi de la France の第二巻を注文したら、第一巻を送ってきやがった。国内ならば、文句を言って送り返しても、それほど手間もお金もかからないが、相手が国外だと困ったもんだ。以前に、フィリップの紹介でパリ大学御用達という旅行代理店に航空券を頼んだ時も、信用していたら、いつのまにか日程が変わっていて、えらく困ったことがあった。常に、常に、気をつけて、彼らの行動を監視している必要がある。(しかし、考えてみると、これは日本とフランスの違いというだけかもしれない、つまり、アメリカとかイギリスとかドイツとかの他の国々については、意見を述べようにもあまり深い経験、あるいは長い付き合いがないのである。)
2010年5月22日土曜日
結論
『狂気の西洋音楽史』または『シュレーバーの音楽』の結論を書いている。以前に書いた『音楽的時間の変容』の中に述べた実験音楽と癲癇発作の比較を出発点(いや終着点となるか?)としている。「音楽の死」である。
2010年5月19日水曜日
Voix de l'au-delà...
シューマンの晩年の作品を集中的に弾いたり、聴いたり、調べたりしている。いかに「彼岸の声」の影が強いか……。彼の最後の作品は、エンデニッヒ精神病院で書いた「シューベルトがあの世から伝えた主題」(!)による変奏曲である。
2010年5月15日土曜日
Heinrich Behr
Tunbridge を読んでいたら、シューマンの晩年の歌曲集 Vier Husarenlieder von Nikolaus Lenau op.117 の(被)献呈者が、ハインリッヒ・ベーア Heinrich Behr であり、シューマンは彼とは1830年代にライプツィヒで知り合ったとあったので、びっくり。ハインリッヒ・ベーアとは、誰あろう、シュレーバーの奥さんの父親である。
2010年5月12日水曜日
Schumann
普通、その存在がほとんど忘れられている、シューマンのヴァイオリンソナタ第3番は、1853年末に書かれたらしい。すなわち、彼がライン川に身を投げる(翌年2月)直前である。そして、この曲はやはり……異常だ!
2010年5月10日月曜日
Déodat de Séverac
C'est fait ! J'ai terminé la rédaction du livre : Déodat de Séverac, biographie autobiographique. Ou : Parfum doux de la nostalgie sonore... Je n'ai pas encore décidé quant au titre définitif, mais en tous cas, c'est fini, je l'ai envoyé à Gen Kimura, des Editions Artes Publishing.
Il est écrit en suivant le modèle de Shibué d'Ogaï. Je ne sais pas si je l'ai bien réussi, mais on verra...
Il est écrit en suivant le modèle de Shibué d'Ogaï. Je ne sais pas si je l'ai bien réussi, mais on verra...
Institut
関西日仏学館 Institut franco-japonais du Kansaï の館長、フィリップ・ジャンヴィエ=カミヤマ氏から礼状が来た。「Cher Monsieur Ryosuke Shiina, Je vous adresse mes remerciements les plus sincères pour votre excellente collaboration à la 21ème édition de l'Académie de musique française de Kyôto....」で始まる、えらい丁寧なもの。しかし、今までこのようなことはなかったのに、なぜ?
2010年5月8日土曜日
ダウン(笑)
バーナード・リーチもその『日本絵日記』の中で、日本人の英語の間違いの酷さを指摘していたが、半世紀経ってもまだ余り事態は改善されていないようだ。今日、深尾さんからリサイタルの案内を貰ったが、彼女の共演者のジェラール・プーレ氏の名前の綴りも、Poulet であったり、Pouret であったり、まちまちである。(フランスの Wiki では、Poulet になっている。)
2010年5月7日金曜日
2010年5月6日木曜日
2010年4月29日木曜日
2010年4月24日土曜日
Angus
花々が咲き乱れる春になると亡くなった Angus Lindsay を思い出す。彼が亡くなった Oxford はちょうどその時、様々な花が咲き誇っていて、この哀しみの感情に対して花々は余りに美しいと思ったのだった。彼の家(彼の弟の家だが)の庭にきれいな桜の樹があったのを覚えている。そして、彼の死をパリまで伝えてくれた米田佳代子さんの小さな声も(彼女も今は亡き人である)。
2010年4月23日金曜日
2010年4月22日木曜日
Les jeunes
電車が事故で動いていなくて、同志社前駅でぎゅうぎゅうに学生達に挟まれての愚痴。どうして彼らはこうも落ち着きがなく、騒がしく、また軽薄なのだろう。しかし、最近ではウィーンで同じような一団に出会った。オーストリア人だろう。フランスに住んでた頃は、多くのフランスの若者も同じだった。ようは、歳が若いたあそういうこった!ランボーによれば Quand on a dix-sept ans, on n'est pas sérieux. まさしく!
2010年4月18日日曜日
セヴラックの生誕年
一時期セヴラックの生誕の年が、1873年であるという間違いが横行していたことがあったらしい。それを決定的に払拭したのがエレーヌ・ブロディの博士論文に引用されている「出生証明書」で、そこにははっきりと1872年と書かれてある。73年説の初出は管見では、ブランシュ・セルヴァによる伝記で、これは彼女がセヴラックへの恋心から、相手の年をそれほど離れていないように「無意識に、わざと」間違えたかも知れないのである。
Revue d'Esthétique
Anne Cauquelin さんの編集のものは、Nouvelle Revue d'Esthétique というようだ。校正刷りがメール添付 pdf 書類で送られて来た。以前は、郵便でやり取りしていたのだから、隔日の感ありである。
2010年4月14日水曜日
2010年4月12日月曜日
Vidal de la Blache
岩波文庫では、ブラーシュ『人文地理学原理』となっている。この上下二巻揃いを今はなき芦屋の古本屋で手に入れておいたが、最近読んでいる。「河根」という「Ex Libris」が表紙裏に貼られており、多くの書き込み、線引きが鉛筆で為されている。この前所有者の「河根」さんは、いろいろな所を旅行したらしく、アフリカ「南阿、リチャードベイ附近を飛んだ」とかオーストラリア「パースからバンバリーを車で走り」とか、書き込まれている。どのような人だったのだろうか。
2010年4月11日日曜日
2010年4月10日土曜日
ラヴェルとバルトーク
ラヴェルとバルトークが出会ったのはどこか?どうもパリで1922年のことではあるらしいのだが、「ある晩餐会兼演奏会」というのはどこか、というのである。伊東信宏さんはアンリ・プリュニエール邸という説だが、フランソワ・ポルシルはジャンヌ・デュボスト邸だと言う。
2010年4月8日木曜日
ベルリオーズとプーランク
これも先日のゴーサン氏との会食の時のこと。彼の言葉が印象的だったので、書き記しておく。
京都音楽アカデミーの最終日は、教師たちによる演奏会で、そこではベルリオーズ、サン=サーンス、プーランクなどが演奏された。彼が他の教師たちとその後、交わした会話について語ったのだが、未だにベルリオーズが「まともな音楽が書けなかった作曲家」として軽んじている者がいて驚いたと言う。ゴーサン氏にとってはベルリオーズは「偉大な作曲家」なのだった。そして、プーランクを絶賛するその音楽家に対して彼はこう言ったという。「確かにプーランクは『良い』作曲家でしょう。うまく書いています。ただ、それだけです。プーランクの音楽は私を動かしません。快いが、それだけ。対してベルリオーズの音楽は私を感動させます」。
京都音楽アカデミーの最終日は、教師たちによる演奏会で、そこではベルリオーズ、サン=サーンス、プーランクなどが演奏された。彼が他の教師たちとその後、交わした会話について語ったのだが、未だにベルリオーズが「まともな音楽が書けなかった作曲家」として軽んじている者がいて驚いたと言う。ゴーサン氏にとってはベルリオーズは「偉大な作曲家」なのだった。そして、プーランクを絶賛するその音楽家に対して彼はこう言ったという。「確かにプーランクは『良い』作曲家でしょう。うまく書いています。ただ、それだけです。プーランクの音楽は私を動かしません。快いが、それだけ。対してベルリオーズの音楽は私を感動させます」。
2010年4月7日水曜日
Mompou2
この音楽は4つの部分から出来ていて、
(1)ホ短調
(2)嬰ヘ短調
(3)ホ短調
(4)ホ短調
となっている。(2)と(3)の部分が問題の箇所であるが、よく考えてみると、それぞれはきちんとII7 - V7 - I となっている。ただし、II7 は第1転回形なので、(2)の場合はバスが、昨日述べたように、ロ音になっている。なので、(1)の終わりの和音である「h - dis - fis」の長和音から、短和音の六の和音「h - d - fis -gis」になったような気がする(気がするのではなくて、実際にそうである)。この長調から短調への「落差」(半音落ちる)が問題なのだろう。
そして(2)から(3)への移行も、「fis - a - cis」から「fis - a - c - e」(これも第1転回形でバスがイ音)なので、ここにも半音の「落差」(嬰ハから本位ハ)がある。
これが「ハッと」させるのである。
(1)ホ短調
(2)嬰ヘ短調
(3)ホ短調
(4)ホ短調
となっている。(2)と(3)の部分が問題の箇所であるが、よく考えてみると、それぞれはきちんとII7 - V7 - I となっている。ただし、II7 は第1転回形なので、(2)の場合はバスが、昨日述べたように、ロ音になっている。なので、(1)の終わりの和音である「h - dis - fis」の長和音から、短和音の六の和音「h - d - fis -gis」になったような気がする(気がするのではなくて、実際にそうである)。この長調から短調への「落差」(半音落ちる)が問題なのだろう。
そして(2)から(3)への移行も、「fis - a - cis」から「fis - a - c - e」(これも第1転回形でバスがイ音)なので、ここにも半音の「落差」(嬰ハから本位ハ)がある。
これが「ハッと」させるのである。
2010年4月6日火曜日
Mompou
モンポウの和音について。《魂の歌 Cantar del alma》の伴奏部分を見て欲しい。最初はごく普通にホ短調で推移しているが、属和音上でいったん楽節が終わった後、メロディーはホ短調で予想される嬰ニではなく、本位ニに行く。次がバスと共に全てが全音上がるのだが、本位ニの位置は一音半上がって、今度は嬰ヘ短調の属和音になる(嬰ホ)。(ただし、メロディーそのものは、本位ホ、嬰ハ、ロと続く。)同じような進行がその後もう一度続いて、最初のホ短調に戻るだが、要はこの辺りの「はぐらかし」である!
2010年4月2日金曜日
ゴーサン氏
ゴーサン氏と大阪で食事。彼の父親は兵士でフランスで捕虜になったりイギリスにいたりしたらしい。彼はノルマンディーで生まれ、母親と二人(兄弟が二人。しかし一人は夭逝)でフランスをあちこちし、トゥーロンに落ち着く。戦後はパリ郊外にいたが、父親は音楽の道に進むのに反対。家出をし、20代でエコールノルマル、後にパリ音楽院。しかしピアノなどは晩学もいいところだったようだ。娘が二人。37歳と35歳。下のは最近離婚。子供が二人いて大変らしい。大学で仕事のために学位を取ろうとしている。
2010年4月1日木曜日
アイガー
『アイガー北壁』を見た。ドイツの田舎町はやはり、ヴィーンと似たような感じがする。言葉の問題が大きく作用しているかも知れない。何となく懐かしい感じもする。セヴラック伝の中で、彼の反独感情を扱ったので、少々不思議な気分だ。しかし彼自身も言っているように、遠く離れて見ると、諍いごとなど馬鹿馬鹿しく思えてくるものだ。
2010年3月29日月曜日
2010年3月27日土曜日
ドタキャン
今日のゴーサン氏の公開講座は、彼の頼みでぼくが通訳やる筈がドタキャン。もともと別人がやる予定だったのを彼の一存でぼくに変更したので、日仏学院の事務が「契約」の変更を認めなかったせいらしい。Ca m'est égal mais ... 笑止千万。
2010年3月26日金曜日
琵琶湖疏水の桜
ゴーサン氏の授業は九条山会館なので行き掛けに撮影。三分、四分咲きといったところかな。今日はグリゼー Gérard Grisey, Vortex temporum の分析。スペクトラルの分析は初めてだ。
2010年3月24日水曜日
2010年3月23日火曜日
Allain Gaussin
Allain Gaussin 氏の作曲マスタークラスの通訳。京都フランス音楽アカデミーとかいうのである。セヴラック伝執筆で忙しいのだが、彼のたっての頼みなので断り切れず。昨日は、メシアンの Messe de la pentecôte の分析。
2010年3月18日木曜日
2010年3月16日火曜日
2010年3月13日土曜日
Mattes
Les Mattes というのは、「マッテス」あるいは「マテス」という発音なのかもしれない。ただ、その場合はアクサンがついて Mattès という綴りの方が現在のフランス語では一般的だと思う。彼らの本当の名前は、Albert Manyach-Mattes (chef de la Cobla, 1er tanor), Joseph Cortie (2e tanor), Vincent Cortie (1er prime), Louis Cortie (2e prime) であるから、マットよりもコルティの方が数は多い。括弧の中はそれぞれの担当の楽器。カタロニアのオーボエである。カントルーブによれば、タノールの長さは87センチ、プリームは60センチである。その他に、フラヴィオルという笛と、タンブリヌーという太鼓が加わる。
2010年3月11日木曜日
むぢから
大倉さんからのメールで、先日(牡蠣パーティーの時)の話の中の「無力」(「〜力」というのは流行っているから)というのは面白い、本を書かないか、と言って来た。ぼくの返信。「むぢから」とは、「ちから」が無いのです。書いてしまうと「書く力」があることになってしまう。よって、「むぢから」という本はありません(あり得ません)(笑)。
しかし、同メールで、彼の作品が展示された去年のシカゴ美術館の展覧会は、入場者数ベストスリーで、今年秋にはサンフランシスコでも催されるそうだ。すごい!
しかし、同メールで、彼の作品が展示された去年のシカゴ美術館の展覧会は、入場者数ベストスリーで、今年秋にはサンフランシスコでも催されるそうだ。すごい!
Danse de chevalet
深尾さんというピアニストの人からの質問で、セヴラック《風車の心》の中の Danse de chevalet を何と訳すかという。彼女はギヨー先生にも問い合わせをしたらしく、彼からの返事も同封してあった。それを読んだり、いろいろ調べてみると、馬(の扮装をした人)と蹄鉄打ちの人との間のコミカルな動作をまじえた、南仏地方の民族舞踊の一種のようである。英語では Chevalet Dance と言っているようだし、無理に日本語に翻訳しても意味がないようだ、と返事をしておいた。
しかし、このことが頭にあったせいか、夕べの夢には、軍人である主人公の男性の或る少女への哀しくも叶わない愛(!)が現れ、「哀しさの中の美しさ」こそセヴラック音楽なのでは、と思ったりもしたのでありました。(まったく論理的ではありません。Comme disait, bien sûr, M. le professeur Freud... excusez du peu ! )
しかし、このことが頭にあったせいか、夕べの夢には、軍人である主人公の男性の或る少女への哀しくも叶わない愛(!)が現れ、「哀しさの中の美しさ」こそセヴラック音楽なのでは、と思ったりもしたのでありました。(まったく論理的ではありません。Comme disait, bien sûr, M. le professeur Freud... excusez du peu ! )
2010年3月8日月曜日
バスクの音楽
バスクの音楽 Agur Jaunak (musiques basques)というCDの解説に Le Zortziko というダンスのリズムが説明されている。バスク語の zortzi (8の意味)から来ているらしい。このリズムはまさしくラヴェルの《ピアノ三重奏曲》第1楽章のそれだ。8分の8という異常な拍子は何かと思っていたが、これでよく理解できる。そして、セヴラック《夾竹桃の下で》のシャルル・ボルドの名前が挙げられているフレーズ。この5拍子もこれでわかる。というのは、もともと8拍子なのだが、19世紀以来、五線譜には5拍子で記譜する習わしだからだ。しかし、1拍目が他のものより短いために正確に記譜するのは容易でないという。
2010年3月5日金曜日
ミモザ3
セヴラックの手紙に「マットたち les Mattes」とあるのは、彼のオペラ《エリオガバル》中でカタロニア地方の民俗楽器(というより楽団)コブラを演奏したマット一家の人々のこと。オペラ初演の前に、彼らが前列に座り、後ろの左側にセヴラック、右側に指揮者のアッセルマンが立っている写真が残っている。
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